都会暮らしを捨て、新天地へ(やまざきようこ)

vol.1:都会暮らし
vol.2:虚構の世界
vol.3:出会い、そして再会
vol.4:父の死
vol.5:プロポーズ
vol.6:恩を返していく人生

vol.1:都会暮らし

〈見習い音響ウーマン〉

「五、四、三、二、一・・・・・・」
張りつめた緊張感の中のスタジオに、秒読みの声が響く。ディレクターの「キュー」が飛ぶ。テープデッキのボタンを押す。テーマ音楽が流れ、タイトルが映る。
私はかけ出しの音響効果マン、効果ウーマンの卵だった。

本番前のスタジオの緊張感と張りつめた空気の中で、指先に神経を集中し、耳を澄まして音を聞く。レコードのターンテーブルをまわす。
画面には海が光っていた。フランク・プールセル楽団の奏でる曲が静かに流れ、画面に大きくタイトルの文字が映し出された。太陽が金色の輪を放ち、海を照らし、濃紺の海面を赤く青く染めて波がうねっていた。薄紫の雲がたなびいて濃紫の空が広がっていた。 映し出させれた映像に、選んだ音楽がマッチして思いもかけない新鮮な画面が展開する。何とおもしろいことか。いつの間にか音響効果の仕事に魅せられていた。

ある日のこと、効果スタジオのマイクの前に、しっかり巻いた大きなハクサイが置いてあった。お、今日は調理実習?!と思ったら、
「よう、手伝うか」
そう言って、テープレコーダーのボタンを押すと、先輩がスタジオのドアを閉めた。テープがまわり出した。
何をするのかと思ったら、先輩はいきなり出刃包丁を握りしめて、思いきりハクサイに突き刺した。
ブスッ!鈍く低い音がした。また突き刺した。何度か突き刺したあと、こちらを向いてニヤッと笑った。
「取れたぞ!」
何と、人を突き刺すときの刀の音を作っていたのだ。録音したいくつかの音を機械にかけて加工すると、先輩は満足そうに次の仕事に移ってる。こんどは床に板を敷いて、マイクの前でぬれぞうきんを力いっぱい叩きつけた。パシッとあたって、ピチャッというしぶきが飛ぶ。何度も何度も強さを変えて、気に入るまでぞうきんを投げつける。こんどは、ちゃんばらで返り血をあびた音だった。

ある日のことだ。別の先輩がリールからテープを引き出して、次から次へとばらしていた。床には茶色いテープがシャラシャラとこぼれ山のように積み上げられて波打っていた。先輩は首をかしげてはつまんだり、揺すったりして波立たせている。三本、四本、五本、テープをばらして、それでも足りなくて、編集部から切り捨てた一六ミリフィルムを持ってこさせると、それを集めてひっかきまわした。まるでフィルムやテープのゴミの山をあさっているようだった。
「何をするんですか」
そう言っても教えてくれない。やがて、テープのシャラシャラした音と、フィルムのサラサラカラカラした音をそれぞれ録音して合成する。
先輩が尋ねた。
「これは何に聞こえる?」
テープレコーダーから流れる音は、川の流れのようだった。流れの中にゆったりと泳ぐ魚をイメージさせるような音だった。そう言うと先輩はうなずきながら言った。
「鯉のぼりだ。大空で風をきってゆったり泳ぎまわる鯉、そして、青い空にカラカラと風車がまわっている音だ。どうだ、聞こえるか」
蒸し暑いスタジオの戸を開けて出てきた先輩は、額に大粒の汗を浮かべていた。
音を集め、音を作る。不安な音、不快な音、心地よい音、心浮かれる音、何もないところに情景をイメージしながら音を作り、組み合わせる仕事は、まるで音をあやつる魔法使いのようだった。やり始めたらやめられない、ついついのめり込んで、時の経つのも忘れてしまいそうな毎日だった。

〈いがぐり頭の青年〉

そんなある日、収録を終えてテープをダビングしていると、後輩の山越君が、久しぶりに大学時代の友人の山崎君を連れて訪ねてきた。山崎君は学生時代と同じようにいがぐり頭に、青いちゃんちゃんこを着て、黒い鼻緒のほおばをひっかけて、カラコンカラコン歩いてきた。日に焼けて真っ黒になった顔をにこにこさせて、私の顔を見ると、「よう!」と言った。

久しぶりだった。いつの間にかキャンパスからいなくなって二年ばかり経っている。あれからいったい何をやっていたのと尋ねると、彼はいがぐり頭をボリボリとかいて言った。
「まあ、いろいろと・・・・」
万博の通訳をやっていたり、土方をしていたりしたのは知っていたが、今は福井の山の中で牛飼いのまねごとをしているのだという。
「牛飼いのまねごと?」
思わずそう言うと、
「ああ・・・・」
彼は豪快に笑った。

山の中の一軒家で、牛飼い農家の手伝いをして暮らしているのだという。これから新しく百姓になって自分も牧場を始めるのだが資金が足りない。牛や土地を買うために資金カンパを募って友人たちをまわって歩いているという。
眉も黒く太く、目鼻立ちがくっきりして以前より何だかたくましくなったようだった。日焼けした赤黒い顔に刻まれた、額の深いしわをほころばせて彼は言った。
「牧場を開いて、軌道に乗ったあかつきにはカンパしてくれた友人に、会員になってもらって、ジャガイモやタマネギなど、とれた野菜を送るから」

今でこそ会員制で野菜を送ってもらったり、牧場のオーナーになったりいろいろあるが、今からニ十年前(1970年)はとてもそんな優雅な時代ではなかった。東京オリンピックが終わって、減反が始まったところである。田舎の人々は、便利な生活を求めて、若者たちは他の職業にあこがれて、都会へ都会へと出ていった。
先日ニ十数年ぶりに高校の卒業名簿を見せてもらったら、五百人 いた同級生の中で農業従業者はたった二人。一人はもともと農家の息子さん。そしてもう一人はまるっきり関係のなかった私。あんなに農家の長男や長女の友達がいたけれど、みんな他の職業についたり、田舎を離れたりしていた。農業をやめる人はいても、新しく始める人はほとんどいなかったのだ。

この人、いったい、何を考えてるのかしらと私は思った。
山崎君と最後に会ったのは、その二年ほど前のことだった。
大学の古い権威主義の体質を打ち破り、地域に開かれた大学をめざして、学問の自由、研究の自由、大学の自治を叫んだ大学闘争の中で、学生たちは、当時、国会に提出された大学立法(大学の運営に関する臨時措置法等)に反対し、 大学解体を叫んで日本中のキャンパスを嵐の中に巻き込んでいった。私たちの大学も例にもれず学内はバリケードでおおわれ、キャンパスはアジテーションや学生たちのデモの声が飛び交い、けん騒の中に包まれていた。学部では自主講座が開かれ、クラス討論やサークル討論が行われた。大学の講義は閉鎖され、学生たちはデモに、アルバイトに、討論に、それぞれの日々を送っていた。

そのキャンパスにようやく静けさが戻ったとき、彼は言った。
「俺はもう、大学で学ぶことは何もなくなった。今日限りこの学校をやめる。やめて旅に出る」
人気のないキャンパスには木枯らしが吹いて、赤く色づいたつたの葉がカサコソと舞っていた。「全共闘、大学立法粉砕、大学の自治を守れ」ストライキの立て看板の紙が破れ、赤い文字がパタパタとあおられていた。昨日までデモっていたのがまるでうそのように、先輩や仲間たちは卒論や教職、そして就職を目前にひかえ、会社訪問や就職試験に忙しく走りまわっていたが、大学をやめてこれから旅に出るという彼の頬は上気していた。
あれから、もう二年。
「何でわざわざ山の中で、牛飼いやるの」
私が尋ねる。
「都会生活というのは。お金さえ出せば欲しいものが何でも手に入る。電車に乗れば行きたいところへどこへでも運んでくれる。ボタンを押せば明かりがつくし、蛇口をひねれば水が出る。スイッチをまわせばガスが出るし、火もつく。何もかもがありすぎて、自分がほんとうに何が欲しいのか、何がしたいのか、わからなくしてしまう。大学を卒業して、働いて、結婚して子供ができて、何十年が過ぎていく。物はあふれているが自分に必要もないものばかり。そんな物に囲まれて、自分のやりたいことが何であるかもわからず、ただ一生を終えてしまう。これじゃあまりにもむなしいじゃないか。何もいらないから、眠りたいときに眠り、食べたいときに食べ、働きたいときに働いて、遊びたいときに遊ぶ。自分が生きているという実感の持てる生活がしたいんだ。そのためには、だれもいない山の中で百姓をするのが一番だ。牛を飼って、牛糞を堆肥にして畑に入れる。野菜を作って、自分の食い物は自分で作る。明かりが欲しければランプをつける、水が必要なら井戸を掘る、必要なものを必要なときに一つ一つ自分の手で作っていく。夕日が沈んだら家に入り、ランプの明かりで本を読む。朝日が昇ったら外で働く。雨が降ったら体を休め、夏は海水浴、雪が降ったら冬はスキー。必要なものを確かめながら納得できる生活をしたいんだ。百姓じゃ食えんと言うてやめたり、都会へ出ていく者が多いのは知っているけど、自分一人食べていくくらい、何とでもできるやろ。農業は人間の生きていく基本や。百姓やりながら、自分に何ができるのか、何をせなあかんのか見てみたいんや。だれか百姓をやるもんもえんと、食べる者と指導する者ばかりじゃ、この国も確実に二十年先はだめになるやろ」

そう言って彼は、あははは・・・・・と笑って言った。
「おかしいか」
「いや、おかしくはないけど、あなたが否定するものはみんなが必死に求めてきたものばかり。それを求めていくことで、この国がだめになるって、ほんとう?!」
「ああほんとうさ。どこか狂ってる」
「なぜ?!」
「山の中で暮らしてみるとよう見える。農業やるとようわかるわ」
そう言うと、彼は冷めてしまった砂糖の入っていないコーヒーをすすった。
そうか、そういう生き方もできるのか。彼の言葉は新鮮な驚きだったが、疑問が一つ残った。他人や物に頼らない生活をするというのに、なぜ、最初から他人のお金をあてにするのだろう・・・。
私にはお金の余裕はなかった。
「今は見習い同然だから、カンパしてあげられるお金なんて全然ないの。毎日食べるだけでやっとなの」
実際、部屋代と水道、光熱費を払って、定期を買うと食費だけで目いっぱいだった。それでもなけなしの給料と時間をやりくりして、映画を見て歩いたり、本屋を歩きまわっていた。
考えてみれば、今まで便利だと思っていた都会の生活はすべてお金で動く生活。本屋へ行くにも映画館に行くにも、電車やバスに乗る。アパートにいるだけでも、電気やガスも水道も黙っていても基本料金が出ていく。すべてが消費につながり生産性がない。田舎は違うという。食べ物でも何でも工夫すれば自分で作る材料がいっぱいころがっている。清算できる場があるというのだ。そうか、便利な生活というのは生産性がない消費の生活なのか、ふっと心に生じた疑問だった。
「それにしても、自分の牧場つくるのに、どうして最初から他人のお金をあてにするの。そんなんじゃ思いどおりの牧場なんてつくれやしないわよ。ほんとうにやりたいなら自分で働いて稼ぎなさいよ。牛一頭、畑一枚からでいいじゃない。少しずつやって自分の力をためて確かめておきなさいよ。やるだけやってだめだったら、また、考えればいいじゃない。初めっから他人のお金をあてにするなんて、言ってることとやってることが違うじゃないの。みんなだれだって食べるだけで精いっぱいなんだから、他人のお金をあてにして牧場つくったっていいことないわよ」
今まで黙ってにこにこしながら私たちの話を聞いていた後輩の山越君が、急に口をはさんだ。
「せっかく福井の山の中から夢を描いて上京してきたというのに、牛も土地もそんなに簡単に一人の力で買えるもんじゃないんです。そんな冷たいことを言わなくてもいいでしょうに。冷たい人ですね・・・・・」
口をとがらせて、ぷりぷりして立ち上がると、
「先輩、帰りましょう。今日はだめですよ」
そう言って喫茶店を出ていった。
ごめん・・・・と言ったが、もう遅かった。
ところが、そんな後輩の姿を見ながら彼はにこにこ笑って言った。
「断られてあたりまえさ。またな!」
彼は後輩のあとを追って新宿の雑踏の中に消えていった。
コートのえりをたて、肩をこごめ足早に家路を急ぐ人。ジャンパーのポケットに手を突っ込み、足どりも軽く横断歩道を渡る人。腕を組み、寄り添い歩く若者たち。排気ガスと雑踏の中、都会に群れたがる人々の多い中で、都会という作られた巨大な文明に背を向けて、たった一人、自分の力を試して田舎で、山の中で百姓をするという。こんな生き方もあるのかと、私は不思議な気持ちで雑踏の中に消えていくげたの音に耳を澄ましていた。

vol.2:虚構の世界

〈突然の病〉

慣れてしまえばそんなものかもしれないが、限られた時間の中で、次から次へと小刻みに神経を働かせ、時間に追われ、番組を作る仕事は、不規則な仕事だった。仕事が不規則になると、生活のリズムも、食事時間もそれにつれて不規則になる。
朝は時間ぎりぎりまで眠り、パンにバターをぬって、牛乳を飲むと、リンゴをかじりながら飛び出していく。昼は近所の食堂で、時間を見ながらラーメンや、うどんかそばをかっ込む。せいぜいゆっくり食べて、野菜いためかニラレバーいためライスか定食。夜はときどき先輩や仲間たちに誘われて飲みに行く。食べても焼きとりか焼き肉かおでんだ。たまには友達からの誘いの電話がかかってくる。材料を買って自分で食事を作るということが少なくなった。いつの間にか食べ物が偏ってきた。

しかも、スタジオや事務所の中は、外は木枯らしが吹いているというのに、セーターやブラウス一枚でも暖かい。ところが、蒸し返すような暑い夏でも建物の中は長袖の上着を着なければいられないような涼しさ。およそ自然とはほど遠い生活だった。こんな中で、早く一人前になりたくて仕事にのめり込んで、自分の体を顧みなかった私は、とうとうバチがあたった。体をこわしてしまったのだ。
入社三年目の夏も過ぎたある朝のこと。何となく体がだるくて起きられない。背中と腰が重く、全身が気だるくて、気力が満ちてこない。こんなはずじゃなかったのに、貧血でもひどくなったのかしらと思い、なるべく休みの日は仕事や友達との約束を断って、体を休めるようにし、それでも働き続けた。
ところが、冬に入ったある日のこと、風邪をひいて近所の病院に出かけた。尿検査をするからコップにおしっこをとってくるように言われた。コップにとった尿を見て驚いた。何と赤茶色をしているではないか。腎出血だった。すぐに入院。絶対安静だという。
入社して三年目を迎え、やっと一人前に何とか仕事をこなせるようになったのに、やりかけた仕事を途中で放り出すというのはたまらないことだった。しかも、半年続いた大事な仕事が、あと一週間で終わるというときのことだ。もう少しがんばってみようと思うのだが、医師から入院するように言われた途端、不思議なことにそれまで動いていた体が、鉛のように重くなって動こうとしなかった。
母に電話をした。すぐに帰ってこいと母は言う。
「東京なんか行かんでも、家の仕事をしりゃあええ。醤油屋をすりゃ一生食いっぱぐれはねえ。家にいても好きなことは何でもできる。わざわざ、東京で女一人で暮らすこともなかろう。長女のおまえが婿さんもろうて、家の跡をとらんと、家もおさまらんやろ」
東京で就職することに反対した父に反発して、
「自分の人生は自分で決めるわ。生きたいように生きる」
そう言って仕事に就いた私だったが、父や母に大見栄をきった手前、病気になったからといっておめおめと家へ帰るわけにはいかない。けれども、それ以上に、見渡す限り都会のコンクリートジャングル、見知らぬ人々の中で、いつ治るか知れない病んだ体を、病院のベッドにひとり横たえているのは、もっとたまらないことだった。
父や母に話して、家へ帰って休ませてもらおう。仕事を離れてもう一度、がむしゃらに過ごした七年間の都会の生活をふり返り、自分の生き方を見つめなおしてみよう、そう思った。

〈ベッドの中で見つけたもの〉

北陸の春先の陽光がやわらかに射し込む病院のベッドに横たわって、耳を澄ましていると、体中の一つ一つの細胞が、キシキシと音をたてて、反乱を起こしているようだった。内蔵の一つ一つが声をたてて、何か叫んでいるようなのだ。今まで気にもとめなかった、それぞれの臓器が、臓器を作る一つ一つの細胞が互いにかかわり合い、助け合って、私という人間が生きているということを訴えているのだ。一つ一つの細胞が回復するために、ただただベッドに横たわって、食べて眠るだけ。眠って食べて排泄して、人間の生きる原点から、すり減らしてしまった心と体の闘病が始まった。
なかなか尿の中の赤血球は減らない。天井の白い壁の穴模様を教えながら一つ一つの記憶で埋めていく。いくつ数えても、いくつ埋めてもなかなか今日が終わらない。検査だといって、毎日のように看護婦さんが血をとっていく。注射器を持つ看護婦さんが吸血鬼のように見えてくる。
腎生検、腎機能検査、レントゲン・・・・・検査ばかりの日が続く。何もできず、何もせず、怠惰な無為な時が流れるようでたまらない日々が続いていた。
そんなある日のこと、向かいのベッドに寝ているおばさんがテレビのスイッチを入れた。突然、画面に黄金の海が輝いて懐かしい曲が流れてきた。入院前に収録しておいた番組だった。静かな夜の病室に流れるドラマのメロディーが哀切をおびて、心に深くしみてきた。私は体を起こして、わくわくしながら見つめていた。
突然、音が消えた。
闇の向こうに看護婦さんの白い姿が浮かんだ。巡回の時間が近づいて、テレビの音をしぼったのだ。音のない画面で、役者さんたちが口をパクパクあけて動いている。
今まで盛り上がりをみせていた画面が突然、迫力をなくして色あせてみえた。あそこにはあんなせりふが、ここにはこんな音楽があったと思うが、色あせた画面からは何も見えず、何も語りかけてこない。スイッチ一つで簡単に消されてしまうテレビの世界、消されてしまったら最後、もうその作品は私たちの目の前には出てこない。そんなことは百も承知で始めた仕事だったのに。自分の体をぼろきれのようにすり減らしてまでやる価値がある仕事なのだろうか。いっしょうけんめいに、夢中でのめり込んでいた仕事がこんなものだったのか・・・・・。
画面の向こうに、スタジオで働いているたくさんの人たちの姿が見えた。あの人たちは、今もこうやってそれぞれの仕事に一喜一憂しながら働いていることだろう。
テレビという虚構の世界の中で、他人の生活や出来事を追いかけて、いつの間にか自分自身の生活がなくなって、根無し草のように日常の感覚がまひし、鈍化し、溺れていってしまう。
ほこりっぽいスタジオの中で、マイクの前で、創造とはおおよそ似ても似つかぬ情報が渦巻き飛び交う社会。そこでは、すべてのものが形を整え、計算され、とりつくろわれ、たちまちのうちに消え去って、人間さえも消耗品にしてしまう。
こんな中で生きていっていいのだろうか。はたしてこんな生き方をしてしまっていいのだろうか・・・・。
ベッドの中で私は、そんな疑問が重く深く心の中によどみ沈んでいくのがわかった。

vol.3:出会い、そして再会

〈人生は味わって生きるもの〉

心も体も静かに休ませている間に、一つ一つの細胞の古い皮がむけて、少しずつ再生し始めたような新鮮な気持ちになってきた。しおれかかった植木が雨をうけてすくっと立ち上がっていくように、萎えていた心が生気を取り戻し始めていた。私は家の中で、生まれて初めて何にも縛られることなくぶらぶらと、本を読んだり、眠ったり、ときには屋根の上でギターをひいたり、絵を描いたりして過ごしていた。
そんなある日、かつて牧場を開くからと、カンパを募り歩いて、仲間たちの前から姿を消した山崎君が、ひょっこりバイクで現れた。荷台には牧場でとれたという、大きな、形の不ぞろいのジャガイモを段ボール一杯積んでいた。

今日は、晩方の牛や餌やりまでに帰ればいいからと、ジャガイモの箱を下ろす山崎君に、父はいいところへ来たとばかり、人手の足りないのをいいことに、車の助手席に乗せて醤油配達に出かけてしまった。
にぎりこぶしのようなごつごつとしたジャガイモの皮をむいて家族の大好きなコロッケを作ることにした。父に母に祖母、そして私たち姉妹四人、そして店や工場で一緒に働いているおじさんと勤めの人、それに山崎君、全部で十人分のコロッケを50個作った。作りすぎて、疲れて座り込んでいる私の前で、大きなコロッケをほおばりながら、彼が言った。
「体が治ったらどおするんだ」
それが一番の問題だった。父が言った。
「東京なんか行かんと、仕事なんかせんでもええ。自分の好きなことをすりゃいいから、家にいて、毎日、こんなうまいもん作って、お父ちゃんにも食べさしてくれや」
父の目がやさしく笑っていた。
自分のやりたいことが、ほんとうは何なのかわからなくて、自分がどんな生き方をしたらいいのか見えなくて、家の跡を継いで醤油屋をやるように言われることに反発して、父に逆らってばかりいた。
「嫌やわ。お父ちゃんの言うことなんか聞いて一生送るなんてまっぴらやわ。もっとほかに自分に合った仕事があると思うし、納得できる生き方をしたいもん。もういっぺん、今の仕事やってみるわ。それで何も見つからんかったら、お父ちゃんの言うたこと考えるわ」
母は傍らで私と父とのやりとりをはらはらしながら聞いていた。数年前から心筋梗塞をわずらっていた父には急激な感情の変化がこたえた。母には父を怒らせることがいちばん怖かったのだ。それを知っていながらも私は自分の心を偽って、父にうそを言うことはできなかった。音響効果の今の仕事が自分のほんとうにやりたい仕事かと問われてもわからない。うそも言えず、かといって馬鹿正直にもなれず、ただただあせっていた。
日が落ちて、ジャガイモのかわりにバイクの荷台にはしっかりお土産の醤油と味噌を積んで、残りのコロッケをぶらさげ、帰り支度をしながら山崎君が言った。
「きみはいったい、何をあせっているんだ。そんなに生き急ぐことはないだろう。人生はもっと味わって生きるもんだ。
元気になったら、牧場へ一度遊びに来るといいよ」
濃紫に染まった街並み、夕暮れの闇の中にバイクは消えていった。
人生を味わって生きる、それはいったいどういうことだろう。自分の心に正直に生きたいとあせって、両親や周囲の大人たちと衝突ばかり重ねていた私の心に、その言葉は大きな波紋を投げかけていった。

〈風変わりな生活〉

夏が過ぎて秋風がここちよいころになると、ひとりでに体が動きだすようになった。仕事に戻るときがきていた。東京へ行く前に、人生を味わって生きる、という生活がどんなものなのか、のぞいてみることにした。
かつて夏になると、友達や家族で出かけた海水浴場や東尋坊のある福井県・三国町。配達をたどりながら小松駅から電車に乗った。足原温泉駅で降りて、バスに乗り換えて三国へ。三国の駅から陣ヶ岡に向かって歩く。踏切を渡ってだらだらと続く長い坂。休み休み歩き続けて一時間余り、陣ヶ岡の坂を上りつめると、林の中に東尋坊の気象台の丸いレーダーの白い建物があった。近くの畑で草取りをしていたおじさんに道を聞いた。レーダーを右手におれて坂を下り、左手の林の中に入っていった。一軒の牛舎の前を曲がると、目の前がパッと開け、眼前に海が見えた。片手には白山連峰の山々が広がり、まるで絵に描いたようなのどかな景色だった。野バラと木イチゴの茂みの林の中の道を奥へ奥へと入っていくと、切り開かれた山の斜面に、ポツンと一軒の牛小屋と、手堀りの井戸、そして小さな家が建っていた。
坂道を下りていくと、丸太で囲った運動場の中の泥の中に、大きな黒い牛が数頭、尻尾をぶらんぶらん揺すって蝿を追いながら、もの珍しそうに寄ってきた。首をしゃきっと立て、赤いとさかを揺らしながら雄鳥が偉そうに歩いていた。そのそばでコッコ、コッコと鳴きながら雌鳥たちがみみずをついばんでいる。
赤いトタン屋根の小さな家の玄関を探していると、後ろから、やあ、という声がした。白いワイシャツのすそを結んで、水色のステテコをはいた彼が、にこにこ笑いながら立っていた。
小さな縁側のある玄関に入ると、あわてて敷きっぱなしのふとんをくるくると巻いて座る場所をつくり、座ぶとんをすすめてくれた。台所で湯を沸かすと、コーヒーカップに茶こしをのせて、お茶っ葉を入れ、なみなみと熱い湯を注いだ。
窓から飛び込んだ銀蝿が天井を飛びかいブンブンうなっている。柱の隅を子ネズミが走っていった。コキブリが立ち止まってひげを揺らす。長い足のカマドウマが向こうの部屋へ三段跳びで飛んでいった。畳のへりを列をつらねて山アリが通り過ぎる。蝿叩きを取り出して、皿の上のせんべいに止まろうとする蝿を叩く彼を、縁側で寝そべっている大きな三毛猫が横目で眺めていた。なるほど、人生を味わうとはこういうことかと思った。ネズミを見ればネズミとりを仕かけ、ゴキブリがいれば即つぶし、蝿がいればフマキラー、蚊がいれば電気蚊とりやキンチョール、何もかも都合の悪いものは目の前から取り除き、殺してしまう都会の生活からはほど遠い。それぞれの生き物たちのしぐさに見とれていると、
「あいつらのほうが俺たちより先に住んでいたんだから、俺たちのほうが侵入者だよ」
彼は、蝿叩きをふりまわして笑った。
台所のやかんのお湯が沸いている。ポットに入れようと思って台所へ立った。しきいをまたいだとたん、ふわっと風が吹いた。何か黒いものがおでこにびちゃっとくっついた。あわてて引きはがしたら、黒い蝿のいっぱいついた蝿取りリボンだった。ねばっこいのりのあとと、黒い蝿が気持ち悪くて、顔を洗おうと流し台を見ると、傍らの茶碗かごは蝿で真っ黒。手を伸ばして払おうとしたら、ウワァーンと天井に舞い上がった。台の下のポリバケツのくみおき水で、きれいに茶碗を洗い直して、ふきんをかけた。が、しばらくすると、ふきんの上も蝿で真っ黒になった。
井戸端へまわって、ポンプの水をくみ出した。白い泡を飛ばして、透き通った水がほとばしり出た。思いきり顔を洗って額をごしごしこすった。蝿取りリボンのねばっこい気持ち悪さが消えていくようだった。
そうっと一口、水を口にふくんでみた。冷たく甘い水の香りが、のどにくーっとしみていった。一年前、彼と彼の父親と一緒に足元の土の下を掘ってつくった手掘りの井戸だった。土の下は、硬い岩盤。のみでけずり、ハンマーで叩きながら一掘り一掘り掘っていったという。周囲には掘り出された石で積んだ長い石垣ができていた。それでも足りずにあちこちに褐色の肌の大きな石がころがっていた。ごつごつした岩穴の井戸をのぞくと、深い水をたたえて、枯れ葉が二、三枚浮かんでいた。小石を投げ入れると、ポッチャーンと音がして、水に映った青い空と私の顔が揺れていた。
風呂場をのぞいてみた。板戸を開けると、中は変形した五角形の風呂場。大きな鉄釜がタイルの中にはめ込んであり、中には丸い板が浮いていた。この板の上に体をかがめてしゃがむのだという。五右衛門風呂だった。直径1メートルの鉄釜を、くず鉄屋さんから五百円で分けてもらったのだそうだ。風呂場のタイルの上に、手作りの燭台に立てた太いろうそくが一本置いてあった。夜、仕事を終えてろうそくの明かりの中で板を浮かべ、風呂に入るのだという。ろうそくなんて、何と優雅なんだろう。
五右衛門風呂なんておもしろそうなので、いっぺん風呂に入れさせてもらった。まきをくべる釜の底から熱い湯がプクプクッと上がって、お尻が急に熱くなった。ポリバケツの水をひしゃくで入れてふと見ると、胸の横に木の葉のようなものが浮いていた。何だかもぞもぞ動いている。ろうそくの明かりを近づけてよく見ると、何と、茶色い大きなゴキブリだった。ゴキブリばかりでなく、エンマコオロギやクモ、得体の知れない昆虫たちが一緒に釜の中でゆだっていた。

この家は、設計図も描いたことのない彼が父親の助けを借りて、初めて建てた家だった。お金はもちろん、材木も道具もない。基礎を打つ生コンやセメントを買う余裕もない。
都会の友人たちから集めたカンパと、両親から借りた父親の退職金、そして自分で稼いだ資金は、とうの昔に五反の土地と十数頭の牛を買ってすべて消えてしまっていた。
この土地にどうやって家を建てるか。材木を手に入れるために、ダンプを借りて土方にいって壊家を手伝って、廃材をもらってくることにした。設計図は、大地をならして、直接地面に絵を描いた。台所、トイレ、風呂場、玄関・・・・・部屋の間取りを実物大の大きさで描いた。寸法をとり縦糸と横糸をはり直した。コンクリートが買えないからそのまま柱を埋めようと穴を掘ったが、地面の下は石だらけ。しかたがないので、井戸から掘り出した石を敷きつめた。その上に大きな梁を家の土台に四角く組んで敷いて四隅に穴を掘って柱を建てた。
廃材の中から使える柱や角材を探し出すと、釘をぬいてカンナをかける。そうすると、すすけて薄汚れた柱も、見違えるように木肌を現してきた。家の裏には使い残した廃材が山のように積んであった。春から夏、夏から秋、小さな家造りにかかりきっている間に、かけ足で季節が過ぎていった。
天井と押し入れができて、家の周囲に青いトタンを打ちつけると、空に一面、どんより重い鉛色の黒雲が立ちこめて、遠くいなずまが光り始めた。いなずまとともに大きな雷鳴がとどろき、激しい音をたてて大粒のあられが赤いトタン屋根の上を打ちつけた。雪おこしの雷だった。バラバラと叩きつけるように降ったあられは、またたく間に家のトタン屋根や牛舎の屋根を白く覆い尽くした。冬将軍の訪れだった。初めて迎える北陸の冬。井戸も掘った。家も建った。牛と鶏、猫と子犬、彼の牧場生活が始まった。

部屋の隅でコオロギが鳴いていた。ほの明るいランプをちゃぶ台の上に置いて、そのまわりを囲んだ彼と仲間たちが、ギターを弾いて自分たちの歌を歌う。静かな山の林の奥、闇の中で、ここだけがぽっかり明るい、そんな思いにかられた。
外に出ると、星が降るように瞬いていた。
こんな生活があったのか・・・・。こんな生き方があったのか・・・・。私には思いもかけない別世界だった。

vol.4:父の死

〈父の言葉〉

体が動き出すようになると、猛烈に仕事がしたくなった。テレビの番組を作るという虚構の世界の中で働くことが、ほんとうに虚構なのかどうか、もう一度確かめたくて、休んでいる間に考えていたことを仕事の中で生かしてみたくなった。それでだめならまた考えよう。いそいそと旅立つ用意をしたいた私の傍らで、帳簿の整理をしながら眺めていた父が言った。
「東京行かんと、一緒に家におらんか。醤油屋が嫌なら、おまえはせんでもええ。学校の先生でも、何でも好きなことすりゃええ。醤油屋は婿さんにやってもらえばいいやんから。どうや家におらんか」
うしろ姿がいつになく寂しそうだった。今を逃せば、父とじっくり話し合う機会ももうないだろう。これまで同じことを何度、言い合ったことか。それでもきちんと話し合っておかねばならなかった。

「醤油屋さんが嫌というわけではないんや。ただ、それが自分で一生を賭けてできる仕事かどうか、もっといろんなものを見て、いろんなことをして、自分が納得できる仕事をつかみたいんや。とりあえず音響効果の技術を身につけたから、一人前になりたいんや。女でも仕事を持って生きたいの。できれば音の技術を身につけて、映画をとりたいと思ってるんやけど。このまま途中で放り出したくないの」
「映画なら、醤油屋をやりながらでも、まこと作ろうと思うたら作れる。結婚しても、家にいれば、子供をおいて仕事にも行ける。別に東京なんか行かんでも、ここにいれば何でもできる」
そう言って、父は帳簿整理の手を休め私の顔を見た。私は黙っていた。家にいると、家や親のフィルターを通してしか社会とかかわりが持てず、どんなに自分の頭で考え、自分の足で歩いていける人間になろうと思っても、ぬるま湯の中であがいているようなものだった。
「もういっぺん音の仕事に戻ってみるわ。それが自分に合っているかどうかと言われても疑問やし、何か人のために役立つかと言われても疑問やけど、とにかく探してみないことにはわかんない。音の仕事をしながら納得できる自分の生き方を探してみるわ」
そう言うと、父はがっかりしたように、けれども何だかほっとしたように、丸い目をしばたかせて言った。
「そうか、そんならもう言わん。おまえの人生や、おまえの好きなようにせいや。だれもおまえの人生を代わってやることはできんのやから。せいぜい生きても人生あと50年や。けどな、自分の心のままに、自分に正直に、好きなように生きるというのは、いちばんむずかしいことや。それができるんならしてみい。醤油屋なら、何とでもなるやろ・・・・。おまえの好きなようにせい・・・・。体だけは気いつけや」
そう言って父は、背を向けて書類の整理を始めた。
「大事なもんはこの箱の中に入っとるから、覚えといてくれや」
涙がとめどなくあふれてきた。
おまえの好きなようにせい、思いがけない言葉だった。あらためてそう言われると、ほんとうはうれしいはずなのに、突き放されたような寂しさと、ひとりぼっちで置き去りにされたような悲しさがこみあげてきた。

〈生きることのむずかしさ〉

物心ついてから、おまえは長女や、醤油屋の後継ぎや、そう言われ続けて、どうやって自分自身、心のとらわれから自由になって生きられるか。両親や祖母、親戚の人たちに逆らってどこかで意地になって突っぱって生きてきた私に、父の言葉は思いがけないものだった。呪縛がとけて気がつくと、心の中に大きな穴がぽっかりとあいていた。私はいったい何のために今まで父に反発していたのだろう。それぞれの所帯を持ちながら、わがもの顔に出入りし自分の家のことのように口出しする叔父や叔母、口うるさい親戚、なぜ、その人たちのために、本家を維持するために家を継がなきゃいけないのだろう。だれかががまんして犠牲になって生きなきゃいけない家などないほうがよい。一人一人、自分の人生を納得して、充実して生きるほうがずっとたいせつだ。そう思って、家そのものに反発してきた。
ほんとうは日本の家族制度、家そのものが悪いのではなく、そこに集う人間が自立していないのだと思う。田舎の本家が強ければ強いほど、子供たちをその周囲にはべらせて、家という大きな傘の下で囲ってしまう。そこは自ら雨風にうたれることはなくぬくぬくと暮らしていける。家に集うことによって家を頼り、自分の頭で考え、自分の足で歩くことのない、自立しきれない人間をつくってしまっていることが問題なのだ。そんな中で自分が暮らしていくことは許せなかった。
けれどもそれらは、みんなどうでもいいことだった。反発して、逆らって気がついたら、自分の中には何もなかった。私は今までいったい何を求め、何をあせっていたのだろう。私も大きな家という傘の下で甘えている人間にすぎなかったのだ。
愕然として父のうしろ姿を眺めた。すっかりやせていまった父の背中には、生命の炎がちょろちょろとやっとともっているようだった。その心もとなさに胸が締めつけられるようにキリキリと痛んだ。生きていることが寂びしくて、哀しくて、涙があふれてくる。父の瞳もうるんでいた。
一週間後、突然、父は亡くなった。
心臓の発作を起こしたのだ。いつかはくるものと予期していたこととはいえ、それはあまりにも突然だった。家の中は、だれも何も手がつかず、とまどいと悲しみに満ち満ちていた。毎日、毎日、ただ茫然と日が過ぎていく。
父の逝ってしまった家、だれも口には出さないけれど、その目が、おまえはどうするのと問いつめている。このまま家にいれば、すんなり醤油屋さんになってしまうことだろう。それでは、父と話し合ったことは何だったのだろう。しばらく家を離れて考えることにした。夜明け前、まだ皆が寝静まっている間に、店の木戸をそうっとくぐりぬけて駅へ向かった。北でも南でも、最初に来た列車に乗ろうと思った。三番線に特急が入ってきた。京都で降りるあてもなく歩いて山陰線に乗った。城崎、鳥取、島根、山口・・・・・10日ほどして家に電話を入れた。
「もうお母ちゃんはだいじょうぶやから、帰っておいで」
久しぶりに聞く母の元気な声だった。
私はこんなところをほっつき歩いて何をしているんだろう。自分の人生、自分で歩いていくと決めたばかりではなかったのか。
母と話し合ってもう一度、仕事に戻ることにした。母や妹たちへの申しわけなさで心が押しつぶされそうだった。自分の身勝手さ。心のままに、自分に正直に生きることのむずかしさをかみしめていた。

vol.5:プロポーズ

〈不思議な生き方〉

10ヶ月ぶりに仕事に戻った。
キュルキュルまわるテープレコーダの音が懐かしかった。何もかも新鮮だった。ほこりっぽいスタジオの空気でさえ、疲れていたときには雑音に聞こえていた音が、生き生きと響いていた。もう一度やれる。新しい何かが見つかりそうだった。私は自分の体を気づかい、食べ物を気にしながら、与えられた仕事を楽しんでいた。失敗したら、またやりなおせばいい。そう思ったら、肩の力がぬけて気が楽になった。不規則な時間を避けて、なるべく昼間の時間帯の仕事に変えてもらった。食事と仕事と睡眠と、そのバランスを十分に考えて働くようになった。
父が亡くなってから、小松にいる間、月に一度か二度、山崎君が見舞いにやってくるようになっていた。時間があるときは、映画をみたり、今まで読んだ本のことを話し合った。物の見方や考え方が私たち二人を合わせると、物の二面体のようだった。両方の見方や考え方を合わせるとちょうど、一つのものが見えてくる。物事に行きづまって悩んでいるとき、自分自身の出口を見つけるには最適の相手だった。黙っているときは、いつまで黙っていても平気だったし、しゃべりたいときはいつまでもしゃべっていた。だれといるより気が楽で、一緒にいるとほっとした。不思議な友達だった。

大学時代、山崎君と一緒に映画を撮ったことがあった。大学闘争の最中、恋愛か革命か、バリケードの内側で自分の人生を語っていた先輩たちの中で、恋愛に闘争に、アルバイトに、教育実習にと、何でもあたりまえのように受け入れて、人生をおおらかに享受しているような先輩がいた。そんな先輩を通して大学とは何なのか、政治とは何か、教育とは何なのか、青春の生きざまを描こうとしたものだった。
山崎君はカメラ、私は音、数人の仲間たちで、先輩を追い始めた。好きな女の人と一緒に暮らし、今日はデモ、明日は土方、明後日は家庭教師。前日はかつて教育実習で教えた子供たちが修学旅行にやってきて先輩のまわりから離れない。そんな姿をカメラにおさめ、言葉を録音していく。
大学とは、大勢の人と人とのぶつかり合いの中で、まさに生まれ育った環境の中で築かれた個人と個人のとらわれの意思を解放し、新たに、物の見方や考え方を再構築していく場だった。そのための学問であり教育だった。そのことを先輩に取材する中で感じさせられていったのだが、撮影も終了段階に入ったある日、突然山崎君が学校へ来なくなった。だれに聞いても消息がわからない。先輩も知らないという。
大学を地域に開放することと学問の自由等を求め、大学立法に反対した学生たちの運動も下火になり、半年ぶりに授業が再開された。久しぶりに学校へ出かけると、キャンパスがやけに騒がしかった。裏門の向こうに装甲車が並び、学生たちが騒いでいた。教育学部の授業中、突然機動隊が教室に入り込んできて、数名の学生を捕まえていったのだという。
学部長の授業のときに、学生たちが今まで提出した大学の問題を、どのように受けとめているのか、解決したのか、話し合いの場を持って答えてもらいたいと数名の学生が申し出た。学部長は彼らの話も聞かず、理由も言わず、警察に通報し、機動隊を教室に入れ、大勢の学生の前で彼らを有無を言わせずに連行させてしまったのだった。大学が自らの努力と工夫で問題解決することを放棄し、警察の力で学生たちを取り締まるようになってしまったのだ。全国の学生たちが反対していた大学立法とはそういうものだった。
父が亡くなってから、小松にいる間、月に一度か二度、山崎君が見舞いにやってくるようになっていた。時間があるときは、映画をみたり、今まで読んだ本のことを話し合った。物の見方や考え方が私たち二人を合わせると、物の二面体のようだった。両方の見方や考え方を合わせるとちょうど、一つのものが見えてくる。物事に行きづまって悩んでいるとき、自分自身の出口を見つけるには最適の相手だった。黙っているときは、いつまで黙っていても平気だったし、しゃべりたいときはいつまでもしゃべっていた。だれといるより気が楽で、一緒にいるとほっとした。不思議な友達だった。

大学時代、山崎君と一緒に映画を撮ったことがあった。大学闘争の最中、恋愛か革命か、バリケードの内側で自分の人生を語っていた先輩たちの中で、恋愛に闘争に、アルバイトに、教育実習にと、何でもあたりまえのように受け入れて、人生をおおらかに享受しているような先輩がいた。そんな先輩を通して大学とは何なのか、政治とは何か、教育とは何なのか、青春の生きざまを描こうとしたものだった。
山崎君はカメラ、私は音、数人の仲間たちで、先輩を追い始めた。好きな女の人と一緒に暮らし、今日はデモ、明日は土方、明後日は家庭教師。前日はかつて教育実習で教えた子供たちが修学旅行にやってきて先輩のまわりから離れない。そんな姿をカメラにおさめ、言葉を録音していく。
大学とは、大勢の人と人とのぶつかり合いの中で、まさに生まれ育った環境の中で築かれた個人と個人のとらわれの意思を解放し、新たに、物の見方や考え方を再構築していく場だった。そのための学問であり教育だった。そのことを先輩に取材する中で感じさせられていったのだが、撮影も終了段階に入ったある日、突然山崎君が学校へ来なくなった。だれに聞いても消息がわからない。先輩も知らないという。
大学を地域に開放することと学問の自由等を求め、大学立法に反対した学生たちの運動も下火になり、半年ぶりに授業が再開された。久しぶりに学校へ出かけると、キャンパスがやけに騒がしかった。裏門の向こうに装甲車が並び、学生たちが騒いでいた。教育学部の授業中、突然機動隊が教室に入り込んできて、数名の学生を捕まえていったのだという。
学部長の授業のときに、学生たちが今まで提出した大学の問題を、どのように受けとめているのか、解決したのか、話し合いの場を持って答えてもらいたいと数名の学生が申し出た。学部長は彼らの話も聞かず、理由も言わず、警察に通報し、機動隊を教室に入れ、大勢の学生の前で彼らを有無を言わせずに連行させてしまったのだった。大学が自らの努力と工夫で問題解決することを放棄し、警察の力で学生たちを取り締まるようになってしまったのだ。全国の学生たちが反対していた大学立法とはそういうものだった。

捕まった中に山崎君もいた。学部の仲間たちも、サークルの友人たちも、この半年ほどの間に次から次へと捕まった。警察の留置所で一眠りしてきた人は両手の指で数えきれなかった。今まで絶対だった大学の言論の自由、学問の自由、行動の自由の幻想はくずれ、それらはあってなきに等しいものになってしまった。学部長の行為に、大学に対する学生たちの信頼は無残にも打ち砕かれ、虚しさとしらじらしさだけ漂っていた。
それ以来、山崎君はキャンパスには戻ってこなかった。彼の大学への登校拒否が始まったのだ。
キャンパスには静かな日常が戻っていた。まるで昨日までシュプレヒコールを叫びデモっていたのがうそのように学園は静まりかえっていた。
フィルムとカメラを持ったままどこかへ行ってしまった山崎君のおかげで、映画作りは中止。仲間たちと集めた音を構成して、録音構成となってしまった。それにしてもいったい、彼はどこでどうしているのだろう。ふっと現れて、ふっと消えて、いつも心をそこに残すことなく自由自在。自由といえば自由、いいかげんといえばいいかげん、全く変な人だった。そのうちに、また、気が向いたらふっと姿を現すだろう。私たちはだれも気にしなかった。
数ヶ月が経った。70年の秋も終わりに近いことだった。人気のないキャンパスには木枯らしが吹いて、赤く色づいたつたの葉がカサコソと舞っていた。
「よお!」
日焼けした人なつっこい顔をほころばせて、青いちゃんちゃんこのたもとを揺すりながら肩をポンと叩いて声をかけた友人がいた。一瞬、明日を止めてよく見ると、久しぶりの山崎君だった。彼の頬は上気し、瞳はうるんで輝いていた。
「俺ら、もう、この大学で学ぶことは何もなくなった。今日限りこの学校をやめる。やめて旅に出ようと思う。大学には幻想もないし、家にも俺らの居場所なんてない。もう引き返すなんてことはできない。自分で納得のできるように生きていくだけだな」
遠くを見つめる瞳の中に赤い炎が燃えているようだった。
それから一年間、彼と会うことはなかった。ところがある日、
「山崎さんは、福井の山の中の一軒家で、研修中だとか言って、牛飼いのまねごとをしていましたよ」
卒論の資料集めから戻ってくると、サークルの放送研究会の部屋で待ちかまえていた後輩の山越君が言った。
「夏休みに葉書きをもらったので、北陸の旅の途中、福井へ寄ってみたんです。東尋坊の近くの山の中の一軒家でね、牛小屋の横の小さな家で、七輪でごはんを炊いて自炊していましたよ。おかずはめざしとたくあんだったかな、家の周囲には鶏が遊んでいるんです。牛小屋のわらの中とか棚の上に卵がころがっていて、それを拾ってきて、茶碗のふちでコンコンと割ってごはんにぶっかけて食べるんです。鶏たちは牛の餌のトウモロコシをつついたり、牛糞の中のうじをほじくったり、飛んでいる蝿をパクッと飲み込んだり。卵の黄身なんか橙色に濃くってね。なかなか割れないの。うまかったなあ・・・・」
話している後輩は、山の中の生活を思い出してかほんとうに楽しそうだった。
「夕方、先輩がまきを割って風呂にくべろというんです。自分は牛の餌をやってくるからといって。なたを思いきり振り下ろすけど、まきがなかなか割れないんです。そのうえ、火もつかないし、風呂を沸かすのに一時間も二時間もかかるんですよ。考えられない生活でしょ」
そう言うと、丸い目を細めて愉快そうに笑った。
「あの先輩は何を考えているのかわからないところがありますねぇ。何か始めるかと思うと、あっという間にいなくなって、まるで風のようで一緒にいる者には、わけがわからないや。だけど、やってることはいるもおもしろそうだなあ」
「ほんと!」
後輩の話に、私たちは思わず笑った。今ごろ、山崎君はどんなに大きなくしゃみをしてるやら。

〈突然の出来事〉

再び、音の仕事に戻ってからも、ときどき上京すると山崎君から連絡があった。互いの友人を紹介したり、されたり、友達の輪が次から次へと広がっていった。新聞記者、ルポライター、テレビのディレクター、オフィス・レディー、商社のサラリーマン、大学の講師、塾の経営者、ガラス屋、不動産屋、政治家のカバン持ち、教師、土建屋、公務員。それぞれの卵たちが、東京の片隅で生きていた。友達と語り、食べ、飲み、私、都会のおもしろさをふんだんに享受していた。
そんなある日、久しぶりに上京した山崎君がやってきた。まだ何となく疲れやすい、青白い私の顔を見て言った。
「こんな息苦しい都会で、いつまでこんな生活を続けるつもりなんや。音の仕事はじぶんの生をかけるほどのものなんか。いったい、何に執着しとるんや。
いいかげんにして、山の中で一緒に暮らそう。空気はうまいし、食い物は新鮮やし、ええぞ」
突然、何を言い出すのかと思ったら、山の中で一緒に暮らそうと言う。まるでそうするのかがあたりまえのようだった。私はびっくりした。
「都会の生活も、仕事も、家も、友達も、今まで受けた教育もみんな捨てて、何もないところで何ができるか、一緒に何かを創ってみないか」
その言葉が妙に心に響いた。
何もかも捨てて、何もないところから何かを創る、そんな生活ができたらおもしろそうだった。
彼と一緒に山の中で、農業しながら生活してみようかしら、そう思った。
一緒に生きていく相棒として、こんなに気楽な相手はいない。お互いにやりたいことをやりながら、縛ることなく、縛られることなく、無理をせず、自然体でつき合っていける。彼となら、何でも話し合いながら、フィフティ・フィフティで気楽にやっていけそうだった。けれども、そんなに簡単に仕事をやめることはできなかった。
「ちょっと、その返事待ってくれる。簡単に仕事をやめるわけにはいかないのよ。そんなに一方的に言われても、私のほうにも都合があるし、少し時間をくれない?」
彼は、「そうか」と言って、突然、ジャガイモの相場の話を始めた。黙っていると一時間くらい平気でしゃべっている彼は全くもってわけのわからない人だった。

vol.6:恩を返していく人生

〈家族の猛反対〉

仕事をやりながら結婚するしか方法がないかしら・・・・。結婚も仕事も子育ても、みんなやりたいと思っていた。けれども、東京と福井では、通うのには遠すぎる。
「どうしよう」
彼に相談すると、彼は事もなげに言った。
「仕事しながら結婚すればいいじゃないか。結婚しても、別に一緒に住む必要なんてないんだから、きみはきみでテレビの仕事をすればいい。俺は俺で、三国で百姓をやってるから」
なるほど、彼の言うことはときどきめちゃくちゃだが、妙に納得させられるものがある。結婚するからといって、別に一緒に住む必要はないのかもしれない。会いたいときにお互いに連絡をとり合って、どこかで会いさえすれば、気持ちは通い合うだろう。

『別居結婚』は、仕事を持つ女が、仕事と結婚生活を両立させる一つの方法のように思われた。
ところが、いろいろ悩んでいる間に、彼は実家のほうへ結婚を申し込みに行ってしまった。家の中はてんやわんや。祖母は猛反対。妹が怒って電話をかけてきた。
「姉ちゃん、いったいどうなってるの。姉ちゃんが、だれにも相談せんと勝手なことばかりするから、家の中はめちゃくちゃや。いったいどうするつもりなんや」
次の日曜日、急いで小松へ帰った。
今までのことや、これからのことを妹たちを交え、母とじっくり話し合った。妹たちや母は納得してくれたが、祖母は納得しなかった。親戚もみな反対だった。叔父さんたちが、わざわざ三国の山の中までどんなところかと見に行った。ところが、山の奥の林の中、電気も水道もきていない。隈でも出そうな山の中で牛を飼い、畑を耕しながら暮らしている。あんなところは、とても人間の住めるようなところではないといった。
「そらみたことか。電気もないような未開の地へ、何でおまえをやったりなんかできるものか。そもそも、この醤油屋をどうするつもりや。私が生命を賭けて守ってきたこの醤油屋を、おまえはいったいどうするつもりなんや」
祖母は、私を前にすると、白髪をなでながらきちんと座ぶとんに座りなおして言った。その目は激しく私をなじっていた。
「この醤油屋は、おまえ一人のためにあるんやないんやぞ。家族やら親戚縁者一族のために、そして小松中の人々のためにあるがや。醤油屋をしとるおかげで、どんなときにも安心して食べるものを食べて暮らすことができたんや。おまえや妹たちを大学へやることができたのも醤油屋のおかげや。おまえがやらずにだれがやるというんや」
祖母の言うことはもっともだった。
「わざわざ山の中の百姓の嫁にやるなんて、何のために大学まで出したんやら。先生になるまでの勉強をさせたことやら。今までの親のせっかくの苦労が水の泡や。電気も水道もないような山の中で農業をやるなんて。みすみす孫娘が不幸になるようなことはさせれん。それに、おまえらのお父ちゃんが亡くなって四ヶ月余りしかたっとらんのに、そんなことを言い出してきて。私が反対せな、この家を守りきるもんはだれもえんがや。私は絶対に許さん」
祖母はかんかんに怒っていた。何としても納得させれなかった。女が結婚するということは、今まで育ててもらった家族を捨て、ときには嫁ぐために自分が抜けることによって、仕事の仲間たちを裏切ることにもなっていた。
親や兄弟、姉妹、祖父母に背を向けて、仲間を裏切ってまで、一緒に生きていく結婚とはいったい何なのだろうか。胸がはりさけそうだった。心臓がちくちく痛んで、毎日針のむしろに座っているようだった。祖母や親戚中を納得させ、母や妹たちを安心させるために醤油屋の跡を継いだらどんなに楽なことだろうか。すべては丸くおさまることだろう。だが、そんなことをしたら私自身どうなるだろう。一時、今はそれでいいかもしれない。だが、一生しれでがまんできるだろうか。私は何のために生まれ、何のために生きているのか。
祖母を説得できなくて、大きな壁に突き当たったまま、毎日仕事をしながら悶々とした日々を過ごしていた。

〈祖母の一計〉

それから三ヶ月ほど経ったある日、小松にいる妹から電話があった。
「姉ちゃん、山崎さんが約束どおり電気を引きました、って言いに来たんよ」
この前、結婚の申し込みに来たとき、祖母がこういったのだという。
「あんちゃん。家の跡取り娘を連れていくとは何事や。まこと欲しかったら、山の中に電気ぐらい引くまっし。電気を引いたら、その話もういっぺん考えてあげるさかいに」
それから三ヶ月。彼は電気を引くために必死になってがんばったらしい。電柱一本につき当時で10万円。最低八本の電柱を立てねば電気はこない。そのうち三本までは電力会社が引いてくれるが、残りの五本は自己負担だ。合計50万円。一日働いた労働がたった3000円。月にせいぜい7万円の稼ぎができたときのこと、その中から50万というお金をひねり出すのは並大抵のことではなかったろう。しかも電柱を立てるには他人の土地を借りねばならない。今から思えば見ず知らずの人の了解をとり、土地を借りることは、見知らぬ土地で農業を始めた彼にとって、金銭問題よりもっとむずかしいことだったに違いない。
けれども、電気が引けたと言ってきたというのだ。妹が電話の向こうで笑いながら話している。
「ばあちゃんは、開いた口がふさがらないと言って機嫌が悪いんよ。でも、もう反対する理由がなくなってしまったみたいやわ。山崎さんは電気が引ければ結婚してもいいと言ったんだと思ってたらしいんよ。ばあちゃんが引けるはずのない電気の件を持ち出して、結婚したいのなら電気を引いてからもう一度、出直してこいと言ったのを、山崎さん流に都合よく解釈して、ばあちゃんに迫ったみたい。ばあちゃんの負けかもしれんわ」
妹は楽しそうに笑う。電話の向こうで、妹なりに結婚するということの意味をしっかりと考えているようだった。
私も、いよいよ自分の気持ちをはっきりさせ、心を決めるときがきたようだ。次の日曜日、彼と待ち合わせて小松の家の門をくぐった。
祖母はもう何も言わなかった。母は、山崎君ならいいと許してくれた。妹たちもそれぞれ、自分の結婚と照らし合わせて何かを考え初めているようだった。
結婚というのは、今まで両親のもと、家族の中ではぐくまれてきた娘や息子が、こんどは自分の足で歩き出し、新たな人生の中で自分たちが、それぞれの子供や家族をはぐくんでいく、巣立ちのときなのだ。家族という大きな温かい傘の下に庇護する立場にたって生きていくときなのだ。そこにはいいかげんな妥協や甘えは許されない。人間初めて孤独を知るときなのかもしれない。
そう思ったら、肩の荷が軽くなった。今は何もできないけれど、母や祖母、妹たちが困ったら、どこで何していても、どんな生活をしていようと何かあったら必ず飛んでこよう。そのときどきに、私のできることは何でもしよう、それが私の役目なのだから。父もきっと許してくれるに違いない。

〈新婚旅行〉

五月の晴れた日、二人で三国の町役場へ結婚届を出した。
役場を出ると、九頭竜川に沿って三国の町を歩き始めた。潮風のにおいが鼻をついた。軒先の干しがれいが港のにおいを漂わせる。家々の玄関先で、おばあちゃんたちがむしろをしいて、台の上に包丁を逆だて、ラッキョウのへたを切っていた。港のそばの岩壁に、あぐらをかいて、漁師のおじさんが漁網のつくろいをしている。浜ではよしずを広げ、おばさんたちがていねいにワカメをのばして、天日に干していた。
潮風が、干物のにおい、ラッキョウのにおい、ワカメのにおいを運んできた。穏やかな日本海の海がどこまでも広がっている。私たちは坂道を上り、松林をぬけて東尋坊まで散歩した。
これが私たちの新婚旅行だった。
それから再び、それぞれの休みをとっていろいろなことを話し合った。
ところが会えば会うほど、別々に離れて生活しているのが不自然になってきた。ほんとうに話し合いたいとき、相談にのってほしいとき、そばに相手がいない。彼が困っているときや、まいっているとき、めいっているときにそばにいてあげられない、それはとても不都合なことだった。
生活というのは、お互いに同じ土俵にたって、共に何かを築いていくことではないのか。二人の関係も、毎日語り合い、確かめ合いをしなければ、いつの間にかうすく、かげろうのように揺らいでしまう。離れて暮らしていると一緒にいると見えないたいせつなものが見えてきた。結婚生活とは一日一日の二人の積み重ねの日々なのだ。二人でいられる日々をたいせつにしなかったら、他に何を大事にするものがあろうか。

私は自分の仕事をやめて、彼とともに農業に飛び込むことにした。これが自分の望んでいるものだというものを、私たちの夢を山の中で創っていくことにした。お金がなければないで何とかなるだろう。必要なものはみんなあとからついてくるだろう。
音の仕事とさよならすることにした。
今まで育ててもらった父や母、そして祖母や妹たち。仕事でお世話になった先輩や仲間たち。大学まで学ばせてもらい、好きな仕事につきながら結果的にはみんな裏切ることになってしまった。直接、この人たちには何のお礼もできないけれど、このお礼は、これから自分の生きていく中で、私のまわりの人々に返していこう。私がみんなからもらったものを、他の人々に返していこう。そう心の中に刻み込んだ。
それから半年後の74年11月、私は三国へ移り住んだ。 完