さらば、おけら山荘(山崎一之)

vol.1:序章
vol.2:雪国へ
vol.3:大地に描いた設計図
vol.4:根っ子のない家
vol.5:ウジボタル
vol.6:梅雨明け
vol.7:五右衛門風呂
vol.8:廃材拾い
vol.9:雷鳴
vol.10:終章

vol.1:序章

父は今年で満八十四才である。
足の不自由さを除けば、毎日元気に暮らしている。
私は父と五十二年間の付き合いをしているわけだが、父と子と意識して接し始めたのは、
私が三国に移り住んで、井戸や家を自力で造り始めてからだと思う。

息子の大和も今年で二十二才。
私はこの年に茅ヶ崎の家を出て、自分の住み処を捜し始めた。
と言うことは、ちょうどその頃の父の気持ちが理解できてもいい年齢になったという事である。
そして来年には、父と私と数人の友人が参加して造った、思い出深い『おけら山荘』を取り壊す計画である。

父に対する感謝と、息子への書き残しと、この世から姿を消す『おけら山荘』に対する私からのレクイエムとして、
この文章を書いてみた。

『さらば、おけら山荘』

vol.2:雪国へ

〈1〉

石ころだらけの土地とはいえ五反の土地を手に入れることが出来た。
先ず最初に必要なのは水だった。
水が無ければ生活する事が出来ない。
「よし、井戸を掘ろう」
どこをどう掘れば水が出るのか判らない。
この辺りに井戸があれば便利だろうという場所に、先ずはスコップを突き立ててみた。
一メートルも掘るとそこからは岩盤であった。
東尋坊という奇岩の名所がすぐ近くにあるのだが、その東尋坊ラインとも呼ぶべき岩の層が、ここまで延びて来ているのだ。
ここから下は全て岩盤である。
来る日も来る日も、のみとハンマーで座布団みたいな岩を一枚一枚剥がしていく作業が始まった。

最初は父と私の二人で始めた作業だったが、途中、東京からKとTの二人が応援に駆けつけてくれた。
井戸の中には二人が下りて行き、地上では二人が三叉に組んだ丸太の上にぶら下げた木製の滑車を利用し、土と岩を引き上げるのである。
普通、土の下には砂の層があり、その下は砂利、砂利の下は待望の地下水があると相場は決まっているらしいのだが、ここの土地はどこまで行っても岩盤ばかりである。
削岩機などという洒落た物は無い。
兎にも角にも、のみと三本のハンマーで、来る日も来る日も掘り続けるしかないのである。
一ヶ月も掘り続けたであろうか。
直径八十センチ程の丸い穴が、その頃には深さ六メートル、直径二メートル程の末広がりの穴になっていた。

いつものようにテストハンマーでのみの頭を打ちつけ、ちょうど座布団くらいの大きな岩をずり動かした時だった。
「どくどく」と北側の岩間から水が出てくるのである。
「なんだ、なんだ。水が出てきちゃったぜ。」と、思わず邪魔者でも現れたようにつぶやいたのを覚えている。
一ヶ月も毎日毎日穴倉に潜り込み、潜り込んでのみで岩を砕いているうちに、岩を砕いて穴を掘ることが目的化してしまい、井戸を掘っているという意識がいつのまにか無くなってしまっていたのだ。
私は、ただただ無意識にのみで岩を砕いていたのだった。

それから半月後には深さ一メートル二十センチほどの水深を誇る井戸が完成した。
「それにしても……」
と、近所のおじさんが言うには、
「兄ちゃんら運が良かったのお」
と言うことらしい。
普通の地層なら湧く前に必ずガスが発生するとのこと。
だから井戸を掘る時は必ずローソクを持って下に降りないと、非常に危険だということだ。それに井戸側といって、井戸を掘り進む毎に、一メートルほどの井戸の壁とも言うべきコンクリートの筒状の物を落としていかないと、普通の地層だったら必ず崩れてくるとの事。
岩盤でなければ、もっと楽に掘り進めたのに、と出てきた岩を蹴飛ばしながら我が身の不運を嘆いていたが、近所のおじさんが言うには、岩盤だからこそ、こんな無茶をやっても井戸が掘れたんやなあ、と言うことらしい。
「兄ちゃんら運が良かったのお」
そうか……。俺は運が良いのか……。
私は奇妙にこの『運がいい』ということを心底納得してしまった。

以来三〇年。
二度ほど井戸の水涸れの年はあったが、現在に至るまで、毎日毎日私達の為にだけ、この井戸水は湧き続けている。

〈2〉

山桜が散り始め、染井吉野が満開である。
白一色だった冬景色が、べたべたの雪融け水で塗りたくられ、道のあちこちが泥土色で塗り散らかされていたついこの間が嘘のようである。
それもその筈、一ヶ月半も穴の中に潜り込んでいたものだから、季節の移り変わりなど感じている暇も無かったわけである。
季節は突然の春爛漫。
もぐら掘りの生活もこれで終わりかと思うと、ちょっと心残りではあったが、私には次なる大事業が待っていた。
家の建築である。
金の無い者が家を建てる。
魔法でもなかなか出来ない難しい問題を実際にやり遂げないことには、私の生活は前には進まない。

「どうしょう親父さん。」
こういう時の父は実に頼り甲斐のある人になる。
戦争で十余年、死線を彷徨ってきた父は、同時に身一つで生きる術を心得ている、実に頼もしい人生の先達でもあった。
自衛隊に入ると自動車運転免許や溶接工の免許が取れるとは聞いていたが、何でそんな必要があるのかとは考えてもみなかった。
井戸掘りや家造りをやりながら「そうか」とパズルが一つ解けたような気がした。
戦争とは殺し合いであると同時に、必要最低限の人間の生の営みの連続性が要求されるのだ。つまり兵隊の最小限の部隊というのは、自給自足の為の最低限の人数でまかなわなければならないのである。
「私は…が出来ません」
では、生き続けることができないのだ。
前線で多くの農家の兵士達が死んでいったと言う話が、気味が悪いほど実感できた。

「どうしょう親父さん」
何しろ父は十余年間、戦争の最前線の渦中にいた人である。
「先ずは材木が欲しいから、解体屋にでも頼んで、しっかりと古材を貰って来ることだな。」
こういう時の父は、背を少々そらし気味に鬚でもあったらなでたいような気分で、鼻をぴくつかせながらものを言う。
正直と言えば正直だが、よくよく気を張らないと、こういう人は弱い人には徹底的に残虐になれるのである。
尤も父と子の関係は、すでに家を出た時から私が父に対し残虐になれる立場を確立していたので、その逆には決してなり得ないからその心配はなかった。

ところで、父はここに来る時に大きな誤解をして来てしまったようだった。
私が家を造りたいので手伝ってくれないかと父に頼むと、父はすぐさま大工道具を持って三国まで来てくれた。
父は持ってきた大工道具を一つ一つ並べると
「さあどうだ。素人でこれほど道具を持っているのは、そうざらにいないぞ。」
と得意満面の笑みをたたえて私を振り返った。
私はあきれて口もきけないと言った風情で父を見た。
「?……」
「親父さんここは電気が無いんだよ!この電気のこや電気カンナ、電気ドリルどこで使おうって言うんだよ。」
父は電動の大工道具一式を茅ヶ崎から持って来たのだった。

次の日から解体屋通いが始まった。
アルバイトを兼ねての解体屋作業である。
作業の合間には、何故か英語の豆単を取り出しては英単語の暗記をしている。
こんなことをしていてもいいのか、と、まだ一方では都会への未練もあるのだ。
一ヶ月も通うと、若干のお金と、ダンプに十台分くらいの古材が集まった。
父もその間、カンナやノコギリを入念に磨き上げたり、めぼしい古材を拾い出しては、釘を抜いたり、使える古材と屑をより分けていた。

〈3〉

「そろそろ設計図を描けよ。」
父の命令である。
この年代の職人気質の男たちに共通している点は、自分で最初にやらずに、先ず人にやらせてみるというやり方である。
「きちっ」とできれば何も言わずにやらせてくれるが、殆どの場合、不合格である。
そしておもむろに自分が、「びしっ」と(少なくとも若い者より)決めてくれる。
「なんだ親父、自分で出来るんなら自分でやれよ。」
田舎での生活を始めよう、と言い出しさえしなければ、そう言って終わってしまうのだが、ここではそうはいかない。
ねちねち嫌味を言われようと、怒鳴られようと、耐えて、一日でも早く仕事を覚えていかなければならない。
「設計図か……。」
親父は小学校卒業で、私は中退とは言え、大学に四年間も通っていたのだ。
人の弱みにつけ込んで、親父は腹の中で笑っているのだ。
「大学卒業って言ったって、何にも分かっちゃいねえ。」
父の口癖だった。

小学校を卒業して十余年間、職人の世界で年季を入れ、独立する間もなく戦争に十余年、死の渕を彷徨い、生きる為とはいえ強盗にかっぱらい、更に殺人や強姦も国の命令でやり通したに違いない。
そして敗戦、ひきあげ、戦後の食糧難。
戦前の軍国主義は全て悪く、わけも判らない戦後の民主主義は全て善。
戦後の価値の喪失感などに浸っている時間さえ無かった。
父たちの世代は平和時の私たちに比べれば、二倍も三倍も、いわば人生をくぐり抜けて来たのだ。
そして、二十余年。
高度成長の時代の底辺を支えてきたのも父たちの世代だった。

朝鮮戦争とベトナム戦争が日本の高度経済成長の主因と断ずるのは容易いが、帝国陸軍に鍛えられた精神と強靭な体力を持つ父たちの世代が、死のぎりぎりまでの困難と貧乏に歯をくいしばって耐え忍んだのも事実である。
ところが、自分たちの息子のような世代に、大学出だからという理由だけで(父には少なくともそうとしか理解できなかった)追い越されていった。
「大卒と言ったって、何も判っちゃいねえ。」
そう言う時の父の目には凄味があった。
その言葉の中に潜む恨みや羨望、諦めや焦燥が、幼い私の心にもはっきりとみてとれた。
「もう二、三日待ってよ。」
設計図など、高校の『職業・技術』の時間にやって以来、全く興味など持っていなかった。
父の言う設計図とは、立面図、正面図、側面図の簡単な見取り図のことである。
ただ計算しなくてはいけないのが、柱が何本、梁が何本、垂木が何本という木材の見積りと、金具やコンクリートの数量の計算である。
二日ほど、設計に関する本を探したが、どの本も難しすぎて役に立たない。
日数だけが三日、四日と過ぎて行く。

五月の終わりに近づくと、みんみん蝉があちこちで鳴き始めていた。
鶯の鳴き声で始まる春の鳥たちの大合唱は、次第にかっこうの独唱に代わり、今では夏を告げるかのようにみんみん蝉が鳴き競っている。
ただ時々、「あれっ」と耳をそばだてる鳴き声が混じっていたりする。
中でも鶯の子供のおぼつかない鳴き声は、思わず気持ちを和らげてくれたりする。
「設計図は出来たか」
父が私に言ってからとうに十日は過ぎていた。
「なにくそ」と思ってもなかなか良い設計図が引けない。
「うん……」
生返事をしながら、今日の晩飯のおかずの事を考えていた。
このところ、毎日毎日忙しく、鯖と秋刀魚の缶詰の繰り返しだった。
たまには「ぱあっ!」と、野菜付きのトンカツでも豪勢に食ってみたかった。
「親父さん、今日はたまには早くあがって美味い飯でも食おうや。」
母の糠漬けがやけに恋しくなったりもする。

人間の抗いようのない保守性は、どんな立派な人間でも、『おふくろの味』には何の抵抗も出来ない、と言うところにあるような気がする。
そう言えば、さかんに革命や、革命やと言っていた友人の好物は確か鯵の干物と古漬けだった。
しかも鯵は三浦半島から伊豆半島にかけたところの天日干しの干物でなければならないと言う。
「あんた革命、革命と言うわりには食い物は保守的だなあ。」
と、感嘆を交えながら言うと、
「お前らにや、天日干しの干物と、ただの乾燥させた物との違いも判らんやろ。革命も保守も紙一重って言うのとよく似てるのよ。」
と、判ったような判らんような事を言っていたのを思い出す。
「鯵の干物でも買って来ようか。」
我ながら良い考えだと思って父に話しかけたが、
「ちっ」
と、父は舌打ちした。
何を考えているのだこの馬鹿は、とでも言いたそうに、父は私の顔をまじまじと見つめている。
軽蔑で、今にも薄笑いさえ浮かべそうである。
父に対する思いやりは一瞬のうちに消し飛んで、むらむらと男への対抗意識だけが湧いてきた。
「設計図、設計図って言うけど、親父さんはどんな家を想像しているんやの。」
何と三国に住んで一年余り、三国弁が混じり始めている。
父は「やっぱり」という顔をして、ポケットから小さく折りたたんだ紙を丁寧に広げ始めた。
「やっぱり」と、私も思った。
嫌な性格である。
最初から私にできない事を見越して、十日も待って自分の設計図を、これ見よがしに目の前に出してきたのだ。

そこには四畳半と六畳、台所に風呂にトイレ、それに押入れが二ヶ所描かれた小さいが完璧な設計図があった。
三寸五分の九尺の柱五十本、四寸×六寸の二間の梁六本、九尺の梁十本……。
基礎、犬走り、土間打設コンクリート約十二立米……。ブロック百個、波トタン八尺物四十枚、カスガイ……。ハゴイタ……。
何やらやたら細かく書いてある。
頭に「かしっ」と血が昇っていくのが判った。
「こんな設計図、無理に決まっているやろし。」
なんとなく怪しい三国弁を操りながら、必死に次の一言を考えていた。
「そもそも、九尺の柱やら、四寸×六寸の二間物の梁なんか買う金はないし、折角造るなら、もう少し大きな夢のある家でなくっちゃ、友達が来ても泊まって貰えやしねえじゃんか。」
自分で無茶苦茶言っている時は時々茅ヶ崎弁が出て来たりする。
金が無いのならもっと小さな家にしてくれ、と言うのであれば筋が通る。
もっと大きな家にしろと言うのは理屈に合わない。

私が無茶苦茶を言う理由は、父と私の家に対する根本的な考え方の違いからくる事は判っていた。
父が三国に来て間もない三月のある日、
「ところでお前はどんな家が欲しいんだ。」
と、一斗缶に割り木をくべながら父は私に問いかけてきた。
「親父さん、その事なんだけど、丸太小屋、ていうのはどうやろか。」
父と面と向かって対話らしい対話をしたのはこの時が初めてであった。

〈4〉

私が生まれる前から、私が家を出るまで、父は東神奈川のNKK浅野ドッグまで、判で押したように朝六時半の汽車に乗って、出掛けて行った。
夜はたまに明るいうちに帰ってきて、小さい頃将棋を指した覚えがある。
それに台風の日などは昼間から家族麻雀はしたことがあったが、話し合いをしたという覚えは無かった。
父と面と向き合う時は、全て結果報告だけであった。
「高校を受験させて下さい。」
「大学を受験させて下さい。」
「大学を退めさせて下さい。」
つまり父と話し合いの結果、結論を出したというのではなく、結果を報告して、事後了解をとる為の存在だったのである。
「何馬鹿な事考えているんだ。」
父はにべもなかった。
丸太小屋というものは、殆ど同じ寸法のものが何百本も必要である事、
隙間があるとそこから風が入ってきて、とてもじゃないが冬は過ごせない事。
そして何より、丸太小屋の造り方を俺が知っている筈がないじゃないか、という父のもっとも理由のため、私の『夢』は、はからずも門前払いを受けてしまった。

私の家に対する夢は、小さい頃の『シェーン』のあの開拓の丸太小屋であり、『ラッシー』が自由に出入できる家だったのだ。
その時初めて、日本の雑木や杉丸太では、丸太小屋はできない、という事実が判ったのである。
「なんじゃ、そんな事も知らんのか。」
丸太小屋の造り方を知らない父に、そんなこと言われる覚えはないわ、と思いながらも、本当に「俺は何も知らん」のだなあ、と、つくづく思い知らされたのだった。

何も知らないという事実は、一ヶ月や二ヶ月、井戸掘りをやったからと言って、決して劇的に変わったりはしなかった。
呆れた顔をしながらも、父は完全に勝ち誇ったように、ゆっくりと哀れな息子に最後の一言を言い放った。
「じゃ、お前の設計図を出して、俺に見せてみろ。」
ここで設計図を出せなければ、私は二度と父と一緒に仕事ができないと直感した。
しかし、設計図は見事に白紙の状態である。
ただ、頭の中には、しっかりと設計図はできていた。

「こんな小さな家でなく、せめてこれぐらいの家が欲しいんや。」
私はそう言いながら、地べたに棒切れをはしらせながら、自分の頭の中の見取図を描き始めた。
「玄関は南の方のこの辺りにして、すぐに四畳半の客間があって、奥には寝室とキッチン、それに書斎が一部屋、あとは西側にトイレと風呂場をもってくる。
風呂はドラム缶の風呂で、焚き口がこの辺り、料理をしながら風呂の薪をくべれるように焚き口の横を台所にする。
取り敢えずこの辺りに押入れを二ヶ所作る、とまあこんなもんや。」

今晩に雨でも降れば、消えてなくなってしまう、地べたに棒切れで描いた設計図であった。
父は黙って腕組をして、じっと私の顔を見つめた。
いつにない真剣な私の顔をしばらく見つめると、
「よしっ」
と言って、父は道具箱から新しい水糸を取り出した。
生まれて初めて、心底、父に借りができたと思えた時でもあった。

vol.3:大地に描いた設計図

〈1〉

「キーン、コーン」
樹々の間に鋭い金属音が木霊する。
梅雨入り前の穏やかな日々の中、鳥や虫や草花たちさえも、のんびりと一日を満喫しているかのように見える。
「キーン、コーン」
世の中の流れがたとえどのように澱みなく安らかに流れているかのように見えようと、その流れに乗り切れない異質の人々がいるものである。
どうみてもこの山中で、ハンマー片手にノミを振り下ろしている姿は、やはり、まともな人間の姿には見えたりはしない。
まともに見えようが見えまいが、そこで生活している人々はその生活が全てなので、例えどんなに山深い豪雪地帯に住もうが、どんなに超過密都市の馬鹿馬鹿しい生活であろうが、本人たちがそれでいいと思えばいいのであって、人の物指しなどは当てにならないものである。

「キーン、コーン」
今日は珍しく在所の高校へ通う林君が、遊びがてら手伝いに来ている。
「どんな生活でもいいけど、自分の納得のいかない、虚しく、馬鹿らしい生活だけはしたくないのお。」
ハンマーを振りながら砕けた岩を寄せ集めている林君に、私は年長らしく、確信に満ちた、人の生き方を語りかけようとした。
「あれえ」
林君はすっとんきょうな声をあげると、オーバーに
「山崎さんのこんな生活が馬鹿らしいんと違うんですか。」
と、言下に言われてしまった。
「あほ、次元が違うのが判らんのけ。」
と、言ってみても、正直な高校生の眼には全てを見透かされてしまっているようだった。
十五年後、林君は、
「山崎さんらでさえ百姓で食っていっているんだから、俺が百姓を始めても食えないわけがない。」
と、脱サラして農業を始めることになるのだが、この時点では、お互い、そんなことになろうとは夢にも思っていなかった。

それにしてもこの土地は一体何という土地なのだ。
井戸掘りの時には岩盤まで一メートルはあったものの、家を建てる予定の所には、岩盤が剥き出しになっている。
基礎コンクリを打つために、父が張ってくれた水糸通りに溝を掘ろうとするのだが、計五ヵ所、全くスコップでは一センチも掘れない個所がある。
十センチも掘ると岩盤に突き当たる個所は無数で、とてもじゃないが、幅三十センチ、深さ三十センチの溝など掘りきれるものではない。
井戸を掘る時は末広がりに掘っても構いはしなかったが、今度はそうもいかない。
出来るだけ真四角に掘らねばならない。
つるはしなどは、「カキーン」としか言わない。
又々、使い慣れたのみとハンマーの登場である。
「親父さん、こんなの無理だよ。」
基礎は溝を掘って型枠を組み、コンクリを流して打設するものだと、父は思い込んでいるふしがある。
私たちにはたっぷりと時間はあるが、お金は無いのだ。
これだけが、今、唯一、自信をもって言える事である。

〈2〉

そもそも、基礎コンクリートを打つために仕事をするのは気が乗らなかった。
例え、基礎打ちの溝が出来たとしても、コンクリートを買うお金をどうするか、
お金を使うためにわざわざ仕事をするのはどうも納得ができない。
お金を使わない為に仕事をするのではなかったか。
この虚しいまでの岩を砕く作業は、私が言い訳するには非常に都合が良かった。
さすがの父もいい加減、嫌気がさしていたと見えて、素直に私の言った事を考え込んでいるようだった。
父の仕事はいつも四角四面。
頑丈の上にも頑丈、それがモットーである。
ところが、ここではそうもいかない。
穴掘り一つ、四角く掘ることが出来ない。
ましてや相手が私では、と、最近では少しずつ、現実に目覚めつつあるようだった。
「カズユキ、穴をみんな埋め戻せや。」
溝を掘り始めてからすでに数日経っていた。
「何をするんやの。」

父の世代は殆ど協議というものはやらない。
自分より腕が上か下か。
金持ちか金持ちでないか。
全てはそこに帰結する。
腕が落ちれば、腕の良いものの言う事に従う。
腕の悪い者は良くなるように、あらゆる努力をして追い越していく。
日本の文化の確かさと合理性の源は、全てここに起因している。
農業技術にしても職人技術にしても、世襲制であれ徒弟制であれ日本人の精神性はここから創られて来た。
その上下関係が一般社会での上下関係になり、社会の隅々にまで縦の社会構造が出来あがってきたのだ。
しかし、日本の本流とも言える流れが、父達自身の手により、戦後経済復興という名の下の高度経済成長によって、音をたてて崩れていく姿を、私はついこの間まで都会で見てきた。

確かさと合理性を追い求めた日本の伝統的合理主義が、戦前の『大和魂』という精神風土にすりかえられ、第二次世界大戦でその精神主義が敗れると、手の平を返したように今度は『遅れてはならない』と国民全てが合理性に走っていった。
経済合理性は、日本人が数千年かけて築いてきた日本の文化を根底から覆していった。
日本はおろか世界の経済を範疇化した戦後のマクロ経済は、父たちの価値観をあざ笑うかのように巨大化していった。
もはや日本の伝統的な価値観は戦後の経済合理主義の社会にあっては無用の長物化してしまった。
豊富な資金とセンス、頭の回転の早さと数字を的確に読み取る能力、そして相手を説き伏せる言語能力、父たちの世代には、どれもこれも大して価値のあるものではなかったものばかりである。
父たちの世代は経済合理性を享受しながらも、自分たちの依って立つ精神世界を自ら蝕んできたのだ。
「何をするんやの。」
父が何を考えているかちょっと興味があった。
「何でもいいから埋め戻せや。」
父はやはり健在であった。

きれいさっぱり埋め戻した土地に、四寸×六寸の大きな梁を置き始めた。
「どすん、どすん」
二人でやっと持ち上がる梁は地面に置くと、ちょっと蹴飛ばしたくらいでは、なかなか動きそうになかった。
「なるほど」
父のやろうとしている事はすぐに私にも理解はできた。
型枠を組もうにも溝は掘れないし、穴を掘って柱を埋める事もできない。
そうなれば残された道はこれしかなかった。
梁を基礎の代わりにしょう、というのである。
これは良い。
これは何よりも金がかからなくて、私の要求にはぴったりだった。
太い梁を地面に直接置いて、これを基礎コンクリと土台のかわりにし、梁に直接細工して、そこに柱を建てて家を立ち上がらせよう、という計画なのである。

基礎の無い家
根っ子の無い家である。
今の私にはぴったりの家ではないか。
周りを太い梁が囲み、内側には大小の梁で囲まれた四角型が出来上がっていった。
「よし、これでいい。」
そう言うと、道具箱から真新しい墨壷を、父は愛しげに取り出した。
この日のために買い揃えた大工道具の品々が、道具箱にはびっしりと詰まっている。
ここに来てから早、三ヶ月。
待ちに待った大工仕事の始まりである。
真新しい木材の匂いの代わりに、懐かしい墨の香りがあたり一面に漂った。
高校生の林君がねじり鉢巻に、鉛筆を一本頭のところに指して、くわえ煙草をしながら墨の糸の端を押さえている。
「おーい、しっかりおさえていろよ。」
私は「ぴーん」と張った墨の糸を思いっきり放した。
いつのまにか手足が軽くなり、背がしゃんとしていく自分の姿を私は感じていた。

vol.4:根っ子のない家

〈1〉

朝が来るのが待ち遠しかった。
外が薄明るくなると飛び起きた。
朝飯前とはこの事で、七時頃まで墨打ちや溝掘りに取り組む。
土台の芯を出し、芯と芯を結んで墨を打つ。
更に曲り尺を使って溝の寸法を出し、柱のほぞの加工をしていく。
何しろ電気が来ていないので全て手作業である。
電気ノコギリと電気ドリルさえ使えれば数秒で出来る作業が、数分も数十分もかかったりする。
それだけで体力の消耗も激しいのだろうが全く疲れない。
無我夢中の作業が一週間、二週間と過ぎて行く。
古材の釘には悩まされた。
完璧に抜いたつもりでも、柱一本細工するのに、一本や二本の古釘が、どこかに潜んでいる。
「ガリッ。」
カンナとノコギリの刃がこぼれ、どれだけ研ぎ出しに時間をかけたか計り知れない。
「ガリッ。」と、音がする毎に寿命の縮まる思いを味わった。
「今度家を造るときには、新しい木材と電気道具が使える身分になってみてえなあ。」
ついつい古釘に悩まされた時には愚痴も出る。
今、思い返してみると、一、二週間目の頃には、まだ余裕があった。
「柱も加工すると背丈が短くなるし、せめて新しい木の香りのする木材を使ってみてえのお。」
愚痴というよりも、大工になったような気分に浸って、新しい仕事を楽しんでいたふしがある。
ところが、一ヶ月もするとその余裕はすっかり影を潜め、本心、そう思うようになっていた。

六月中旬になると北陸地方も梅雨に入る。
私たちは『おけら牧場』建設予定地から八百メートル程離れた、前田牧場の事務所の一室を借りていた。
そこは私が一年間、前田牧場で研修をしていた時に借りていた部屋で、台所も風呂もあり、土方仕事や大工仕事で汚れて帰ってきても、安心して大の字になって寝れる事務所の部屋だった。
前田さん夫婦は昼間は家畜の世話で「山」へ来るが、夜は七キロほど離れた田圃所の川崎の自宅に帰るため、事務所は自由に使わせてもらっていた。
「梅雨までには何とかしたいなあ。」
父と私の思いは同じだった。
梅雨入りまでには屋根だけは何としても葺き終りたかった。
ところが、作業は思っていたよりよっぽど大変な仕事だった。
まず適当な材料の絶対量が足りないのである。
柱も垂木もベニヤも大幅に不足していた。
柱はやはり八尺は欲しかった。
六尺の柱では、柱としては使い物にならなかった。
垂木も九尺は欲しい。
六尺では使える場所が限られてくる。
屋根の裏板だけはせめてコンパネを使いたかった。
トタンの屋根にぺらぺらのベニヤでは、夏や冬の寒暖を考えると、とてもじゃないがゆっくりと睡眠など採れたものではない。
材料が足りない上、全て手作業という大工仕事は、おのずと日本の伝統的『根性』に頼るしかない。
しかしその『根性』も古釘の「ガリッ」という音を聞く毎に、ノコギリの刃のように擦り減っていくのが目に見えるようだった。
梅雨に入る頃になってようやく柱と梁と母屋の加工が終わったところだった。

〈2〉

梅雨前線がどっかと太平洋沿いに腰を下ろして微動だにしない六月下旬のある日の事、前田さんがお酒を持って陣中見舞いに来てくれた。
前田さんには去年一年、畑仕事から家畜の飼い方、百姓の心構えから土地の世話まで、ここに住むためのイロハを教えてもらった人である。
「よう降るのお。」
このところ連日の雨で、取り敢えず筋交いをとり、柱と母屋を組み立て、垂木も仮打ちして、屋根の代わりに青シートを張って大工仕事を続けていた。
「わざわざどうも。」
前田さんをまだ床も張れていない一隅に招き入れ、私たちも一服する事にした。
しばらく世間話をした後で、前田さんは本題に入ってきた。
「実は八月の初めに研修生が二人ほど来るので、あの事務所を空けて欲しいんやけど、それまでに家は完成するけの。」
私は前田さんの事務所を自分の家のように使っていたため、
「うっ。」
と、思わず答に詰まってしまった。
そうだ、あの事務所は前田さんの事務所だったのだと、改めて思い知らされてしまった。
十五ヶ月も住んでいるうちに、彼我の区別がつかなくなっていたのだ。
当然、部屋代も払ってはいなかった。
以前の何も知らない時なら、「わかりました、長い間ありがとうございました。」と少しは大人らしい返事もできたであろうが、あと一ヶ月でどれだけの仕事ができるか検討のつくようになった今の私には、きっとろくな答もできなかっただろうと思う。
八月初旬までにはあと一ヶ月余しかない。
前田さんが帰った後、父と二人降りしきる雨の中、どちらから声をかけるともなく、家の真ん中にどかりと腰を下ろした。

「親父さん、酒でも飲もうや。」
前田さんが今持って来てくれた酒を手繰り寄せた。
これから八月初めまでどんな事をせねばならないか、又、八月以降、どういう生活を余儀なくされるか、二人は二人なりの覚悟をするしかなかった。
雨足はますます激しさを増し、屋根に掛けた青シートを容赦なく叩きつけている。
雨を肴に二人は黙ってコップ酒を飲み干した。

〈3〉

夜になると電気のない開拓地は、三方を林に囲まれているため漆黒の闇となる。
雨上がりの夕方は釘の頭が見えなくなるまで大工仕事を続けた。
勿論、一刻も早く家を完成させたいという気持ちはあったが、それよりも、南側の谷地のような田圃から、夜になると、気紛れに舞飛ぶホタルを見逃すわけにはいかなかった。
この近辺は、昔から小さな泉が湧き、下の集落の嵩(だけ)の人たちはよく洗濯に来たものだと、嵩の人たちが話してくれた。
ホタルは清流の冷たい川の中で育つ。
特にカワニナという貝を食料とし、確か、六回か七回、脱皮を繰り返し劇的に地上に出現するその一生は、幻想的な光とともに、まさに、現代の奇跡である。
「親父さん、ホタルやわ。」
「ほー、ホタルかあ。久し振りだなあ。」
父も感嘆の声を上げた。
蚊取り線香を足許に寄せ、夜気でひんやり乾いた額の汗をタオルで拭いながら、父子二人でランプの僅かな光の下、いつまでも光の奇跡を見続けていた。
或る晩、なかなかホタルが飛んで来ないので、藪の中を目を凝らして捜していると、「いるいる」藪の中に何十何百という小さな明りが光っている。
「凄い」
思わず私は自分の目を疑った。
ところが暫く見ていたが、一向に舞飛ぶ気配がない。
飛ばないホタルもいる事を、この時初めて知ったのである。
「大きく輪を描いて飛ぶのが源氏ボタル、藪の中で飛べないホタルがウジボタル」
林のおじさんが私に教えてくれた。
(これは後に、福井市自然史博物館の学芸員の方に聞いた話だが、ウジボタルは多分「クロマドボタル」の事だろうと言う、決して飛べないわけではなく成虫になると飛び始めるのだが、発光作用が弱くなり、夜目でもその光は見えないのだという。幼虫の時には発光作用が盛んで光って見えるので、通称「ウジボタル」というのだろう、との事であった。)

林さんは正体不明の不思議な人である。
ある時は百姓、又、ある時は土方のおっさん、重機の運転手、そして不動産屋であったり、又、ある時は、九頭龍(くずりゅう)太鼓の名人でもある。
林のおばさんはと言うと、一言で言うと、ダンプカーのようなおばさんである。
どちらかと言うと、内にこもるタイプの多い北陸にあって、珍しく威勢のいいおばさんである。
ちょっと痩せぎすで背高のっぽのおじさんと、どっしりして、大きな瞳を持ったおばさんのこの夫婦は、私がここに道を拓いて小さな小さな牧場を開く時から、愛犬と一緒に、よく見物に現れた。
「あんちゃん、よくやるのお、偉いのお。」
何が偉くて、何がよくやるのか、よく理解できなかったが、
「ええ、まあ。」
などと、適当に相槌を打ってはいた、が、そのうち息子を連れて来て私に引き合わせた。
その息子が当時高校生だった林君である。
煙草をくわえた高校生林君は、その後、ちょくちょく遊びに来るようになった。
大学卒業後、衣料品メーカーに勤めたが、脱サラし、今では堂々たるトマト中心の専業農家である。
去年などは小学校のPTA会長もやり、あの煙草少年林君がついにPTA会長か、と万感、胸に去来するものがあった。
又、林君の話は後の機会に譲るとして、林家との付き合いは、牧場開設以来、今日までずっと続いている事になる。

「ウジボタル」の発見は新鮮な驚きだった。
しかも、飛べないとは言え、闇の中で、何十何百という「ウジボタル」を捜すことが出来たのである。
ホタルと言えば優雅に夏の夜を飛び交う「源氏ボタル」しか知らなかった。
夕暮れが迫り、樹々の影が幾重にも重なり、闇が濃くなればなるほど、「源氏ボタル」の美しさは際立ってくる。
しかし、その「源氏ボタル」の飛翔の影に、数え切れない「飛べないホタル」の存在を知る事により、ホタルの美しさは私の中で益々神秘化されていった。
夜が過ぎれば、やがて朝が来る。
光はやがて影を創り、影はやがて光を創り出していく。
事務所への帰路の所々には、微かにねむの木の花の香りが漂っている。
この花が満開になる頃には、長かった北陸の梅雨も明けるはずである。

vol.5:ウジボタル

〈1〉

梅雨明けを心待ちにしていたのは、この年ばかりではなかった。
毎年毎年、何らかの思い入れをもって、梅雨の明けるのを待っていた。
小学校の六年生の時だった、と思う。
当時、開設されて間もない市営プール場へ、それこそ毎日のように通っていた事がある。
海に潜ってハマグリを採ったり、岩場のサザエを採ったりするのは、もうそれほど興味がなくなっていた。
それよりも流線型を描きながら、勢いよく水飛沫をあげて飛び込む競泳のスタートや二十五メートルのタイムを競う泳ぎの方が面白くなっていた。
当時、テレビの番組の中でも水泳放送は、プロレスやボクシングの世界戦と並んで、子供たちの大好きな番組の一つでもあった。
中でも、山中選手の活躍する千五百メートル自由形競泳を、それこそ、血沸き、肉踊る思いで、子供たちは応援していた。
まさか山中選手のようなスイマーになれるとは思ってもいなかったが、明けても暮れても私はプールに通った。
唇が真青になっても、プールから上がってこなかったのは、私一人だけではなかった。
この年、度の過ぎたプール通いに呆れた母は、
「雨の日にプールに行くのは駄目よ。」
と、一方的に私に宣告をしてきた。
親になった今、これは極めて当然の処置だと思うのだが、当時の私には、親の一方的なヒステリーとしか思えなかった。
「なんで駄目なんだよぉ、プールぐらいいいじゃんかよぉ。」
と、口先をとんがらせて不平を言う私に対し、母は、
「雨が降ってもプールへ行きたかったら、雨の中に立っていなさい。」
と、見事に私を一言で退けてしまった。

母は女性には珍しく理論派であり、絵も描き、読書や観劇も好きで、その上世の中に対して過激派であった。
過激派は良いのだが、時々ヒステリックなまでに衛生的であったりする事を除けば、私には優しい母親であった。
梅雨も、もう今日、明日にでも明けるだろうという頃、母にも私にも忘れられない『家出事件』が起きた。
雨が降ると、例え七月でも肌寒く感ずる日と、ちょっと陽が射せば湿気と高温の為、じっとしていても体内がベトベトになってしまう日とが交互に訪れていた。

その日は、どちらかと言うと涼しい一日で汗もかかなければ、勿論ほこりを被るような事もなかった。
深沢七郎の『庶民列伝』にでも出て来そうな、所謂、下町に住みながら、どこか垢抜けしたスマートさがあった母の日常生活は、とても衛生面について口うるさかった。
別に大した家でもなく、どちらかと言うと粗末な家であったにもかかわらず、柱と廊下と階段は、毎日からぶきをせずには、一日が始まりも終わりもしなかった。
雨の降る日はそれ程でもないが、天気の良い日や風のある日は、新聞紙に水を浸し、それを細かくちぎって畳の上にまき、一日に何回も掃除をしていた。
汚れていてもいなくても、服は毎日洗いたての服に着替えさせられた。
風呂は一日の休みもなく、銭湯へ連れていかれた。
小学六年生にもなると、私は毎日こういう母と一緒にいると、時々、息が詰まるようになっていた。

近所の子供達は皆、汚い長ズボンと長袖のシャツを着ていた。
転んでも怪我のないように、鼻水が出ても袖口で拭けるように、というわけでもないのだろうが皆が皆、長ズボンに長袖のシャツを着ていた。
半ズボンに半袖を着せられて外に出されると、友達の輪の中に入りづらい、などと言う子供の思いなど、当時の母には理解できなかったのだろう。
理解できなかったと言うより、それこそが母の生き甲斐だったのかもしれない。
野良で鍬を横において、家族で昼食を食べている写真や、映画のシーンでもあろうものなら
「家畜の糞やら下肥を触った手を、ろくに洗いもしないで、汚いったらありゃしないわ」と、鬼の首でも取ったように、子供たちに聞かせるのだった。
農家の生活は不衛生だ、貧乏な人達は汚い。汚さと不衛生を母は目の敵にしていた。
母が殊のほか、農家や貧乏を嫌がった背景には、戦後の買い出し、という生々しい記憶と、父の実家に結婚の際、さんざんいたぶられた記憶があったのだろうが、彼らとはここが違うんだという、区別する明白な物は、何物も持っていなかった母が、唯一、自分と彼らを区別できたのは『清潔』でいるということだけだったのかもしれない。

「お風呂に行ってきなさい」
姉と二人、風呂桶と石鹸を持たされて家を出た私は、何で汗もかかなければ、ほこりも被らないこんな日に、風呂に行かなければならないのか、この日ばかりは納得できなかった。
姉は銭湯から上がると、さっさと家に帰ったが、銭湯に行かずに遊んでいた私は、暗くなるまで帰らなかった。
薄暗くなってから帰った私に母は
「風呂にも入らないような汚い子には、食べさすご飯はないよ。」と、私に凄んでみせた。
「そうですか。」
私はあっさり納得すると、死のうと思って家を出た。
それから四時間後、近所のニワトリを飼っている小原のおばさんに見つけられて、私は家に連れ戻されてしまった。
それ以来、母は私に何も言わなくなった。
その日、線路から見た三日月が、平塚の方にある工場地帯の長い煙突に吸い取られるように消えていった光景が、心の隅に鮮やかに残っている。
小原のおばちゃんと、私を連れ戻しに来たばあちゃんが
「明日は梅雨明けかしらね」
と、言っていた言葉を私は昨日のようにはっきりと覚えている。

〈2〉

「よう!山崎。」
野太い声が背後から聞こえた。
「光ちゃん?! 来てくれたんか?!」
背丈は百八十センチほど、体重は悠に九十キロは超えると思われる光ちゃんが、重そうなリュックサックと大きな白い紙袋を下げて、にっこり笑って立っていた。
高円寺で仲間と出版の仕事をしている光ちゃんは、大学で経済を勉強していたが、どうしても司法試験をとりたくて、大学三年頃から司法試験の受験体制に入って勉強していた。
大学でたまたま机を隣り合わせ、深沢七郎がお互いの愛読書であるというだけで、信頼関係は成り立ってしまった。

「よく来てくれたなぁ。早速だけど昼飯の用意をしてくれないか。」
光ちゃんは山登りが好きである。
休日になると丹沢の山々を登り歩いていた。
宮ヶ瀬から塔の沢、蛭ヶ岳と、三日でも四日でも、長い時は十日程も帰ってこないことはざらだった。
一時期、光ちゃんの下宿先に転がり込んで、三ヶ月ほど寝食を共にしたことがあった。
彼も私も留守勝ちで、なかなか一緒に食事をする時間が無かったが、当時、通訳のバイトをしていた私は金回りも良く、晩飯は私がおごり、朝飯は彼が自炊してくれたのだった。

味は折り紙付き。
今日から美味しい飯が食えそうである。
私以上に喜んだのは父だった。
父は小さい頃から仕事は教え込まれたが、日々変化する生活の細々とした事は一切教え込まれていなかった。
仕事さえ出来れば金はついて回る。
そうすれば、女も飯もついて来る。
例え生活の貧富の差が多少あれども、それが人生というものだ、という信念のようなものを持っていた。
自分の稼いだ金の範囲内で家族が生活する。貧しくとも父を中心にした和やかな家庭を夢想していた父だったが、母は違った。

母は限られた予算の中で慎ましく生活するよりは、足りない分は自分で稼ぎ出す。
所謂、自立心の高い女性だった。
母は主婦と仕事を両立させた。
朝飯と弁当と夕飯は、日曜日以外、準備し忘れたというようなことは無かったように記憶している。
父もそれが当然だと思っていた。
が、ここの生活は、父の思いにはお構いなしに誰が食事の準備をするのか決まっていなかった。
父のおかずは決まって、ありったけの野菜を入れて煮詰めたような味噌汁だった。
私は味噌汁に、あとは缶詰。中でも鯖缶の味噌煮が最も安価であったため、鯖缶は常に台所に山となって保管されていた。

光ちゃんの参加で仕事に弾みがついた。
余裕も出来た。父と私の呼吸もぴったりと合い始めた。
次ぎに何をしたら良いのか、言われなくても判るようになってきたのだ。
尾根を全部張り終え、二部屋と台所だけは窓枠を入れ、あとの仕切はベニヤを打ちつけたり、引き戸を入れたりして、どうにか雨風だけは凌げるようにした。
風呂だけはまだまだかかりそうなので、前田さんに頼んで使わせてもらう事にした。

〈3〉

「ようし!今日は祝杯だ」
前田さんからの引越しが完了した七月下旬の或る日、ささやかな引越記念パーティを三人で用意した。
イカとハマチの刺身に肉じゃが、それに定番の鯖の味噌煮の缶詰を買出しに行って来た。
久々に豪勢な夕食である。
レッドの大瓶を二本買い込んだ。
ビールも酒もまだまだ贅沢品であった。
父の若い頃は冷酒を一、二合一気に飲んでそのまま山手線の駅を一駅走れば、たいがい酔っ払えたもんだと自慢していたが、今は手軽なレッドがあった。
その上、極上の自力で掘った井戸水が、水割り用の水として使えるのだ。
冷たい、汲んだばかりの井戸水をコップにとり、琥珀色のアルコールをとくとくと差し込むと、不思議な螺旋模様を描きながら水割りが出来あがる。
冷蔵庫の無い七月の盛りである。
刺身の料理は一分の猶予も許されない。
『乾杯!』
『乾杯!』
光ちゃんは静かな野太い声でコップを前に突き出す仕草をしては、見事にぐいぐい飲み干していく。
あまり酒の飲めない私らは、貴重な一杯の水割りを飲むと、料理の方に舌鼓を打っていた。
「この家が完成したら、今度は一級酒かビールで乾杯しようぜ」
父が酔った勢いで威勢のいいことを言い出した。
「いいえ、僕はこれで充分です。この水割りは最高です。」
私と光ちゃんは顔を見合わせてニヤリと笑った。

自分たちの建てた家で、自分たちの掘り当てた水を飲む。
例えその生活が極貧の状態だとしても、自分で掴んだ自分の生活がそこにはあった。
それで充分だとは思わないが、確かな自分の生活が出来あがりつつある、という実感は沸沸と湧いてくる。
あまり飲めもしない私は、そこにそのまま、いかにも一人で酒を飲んだかのように酔いつぶれてしまった。

夜中の何時頃だったろう。
ぶんぶんという蚊の鳴く声に「ふっ」と目が覚めると、光ちゃんが平然と本を開いて勉強していた。
光ちゃんの持ってきたリュックサックと白い紙袋の中は、僅かな下着と着替えと、あとは法律関係の本ばかりだった。
私は家を造り始めてから、英語の豆単は手許に置かなくなっていた。
本もテレビも映画も観なくなっていた。
少なからぬ衝撃を覚えたが、私はそのまま目を閉じた。
翌日、私は一日中青い顔をしていた。
午前中は二度、三度と胃液まで吐き出して、せっかくの栄養源を自分の意思とは関係なく体が拒絶してしまうのである。
「全くだらしがねえだから」
父は全く情けないという顔をして、舌打ちしていた。
光ちゃんは唯々笑っていた。
梅雨明けは三日ほど前に気象台から発表されていた。

vol.6:梅雨明け

〈1〉

梅雨明けを心待ちにしていたのは、この年ばかりではなかった。
毎年毎年、何らかの思い入れをもって、梅雨の明けるのを待っていた。
小学校の六年生の時だった、と思う。
当時、開設されて間もない市営プール場へ、それこそ毎日のように通っていた事がある。
海に潜ってハマグリを採ったり、岩場のサザエを採ったりするのは、もうそれほど興味がなくなっていた。
それよりも流線型を描きながら、勢いよく水飛沫をあげて飛び込む競泳のスタートや二十五メートルのタイムを競う泳ぎの方が面白くなっていた。
当時、テレビの番組の中でも水泳放送は、プロレスやボクシングの世界戦と並んで、子供たちの大好きな番組の一つでもあった。
中でも、山中選手の活躍する千五百メートル自由形競泳を、それこそ、血沸き、肉踊る思いで、子供たちは応援していた。
まさか山中選手のようなスイマーになれるとは思ってもいなかったが、明けても暮れても私はプールに通った。
唇が真青になっても、プールから上がってこなかったのは、私一人だけではなかった。
この年、度の過ぎたプール通いに呆れた母は、
「雨の日にプールに行くのは駄目よ。」
と、一方的に私に宣告をしてきた。
親になった今、これは極めて当然の処置だと思うのだが、当時の私には、親の一方的なヒステリーとしか思えなかった。
「なんで駄目なんだよぉ、プールぐらいいいじゃんかよぉ。」
と、口先をとんがらせて不平を言う私に対し、母は、
「雨が降ってもプールへ行きたかったら、雨の中に立っていなさい。」
と、見事に私を一言で退けてしまった。

母は女性には珍しく理論派であり、絵も描き、読書や観劇も好きで、その上世の中に対して過激派であった。
過激派は良いのだが、時々ヒステリックなまでに衛生的であったりする事を除けば、私には優しい母親であった。
梅雨も、もう今日、明日にでも明けるだろうという頃、母にも私にも忘れられない『家出事件』が起きた。
雨が降ると、例え七月でも肌寒く感ずる日と、ちょっと陽が射せば湿気と高温の為、じっとしていても体内がベトベトになってしまう日とが交互に訪れていた。

その日は、どちらかと言うと涼しい一日で汗もかかなければ、勿論ほこりを被るような事もなかった。
深沢七郎の『庶民列伝』にでも出て来そうな、所謂、下町に住みながら、どこか垢抜けしたスマートさがあった母の日常生活は、とても衛生面について口うるさかった。
別に大した家でもなく、どちらかと言うと粗末な家であったにもかかわらず、柱と廊下と階段は、毎日からぶきをせずには、一日が始まりも終わりもしなかった。
雨の降る日はそれ程でもないが、天気の良い日や風のある日は、新聞紙に水を浸し、それを細かくちぎって畳の上にまき、一日に何回も掃除をしていた。
汚れていてもいなくても、服は毎日洗いたての服に着替えさせられた。
風呂は一日の休みもなく、銭湯へ連れていかれた。
小学六年生にもなると、私は毎日こういう母と一緒にいると、時々、息が詰まるようになっていた。

近所の子供達は皆、汚い長ズボンと長袖のシャツを着ていた。
転んでも怪我のないように、鼻水が出ても袖口で拭けるように、というわけでもないのだろうが皆が皆、長ズボンに長袖のシャツを着ていた。
半ズボンに半袖を着せられて外に出されると、友達の輪の中に入りづらい、などと言う子供の思いなど、当時の母には理解できなかったのだろう。
理解できなかったと言うより、それこそが母の生き甲斐だったのかもしれない。
野良で鍬を横において、家族で昼食を食べている写真や、映画のシーンでもあろうものなら
「家畜の糞やら下肥を触った手を、ろくに洗いもしないで、汚いったらありゃしないわ」と、鬼の首でも取ったように、子供たちに聞かせるのだった。
農家の生活は不衛生だ、貧乏な人達は汚い。汚さと不衛生を母は目の敵にしていた。
母が殊のほか、農家や貧乏を嫌がった背景には、戦後の買い出し、という生々しい記憶と、父の実家に結婚の際、さんざんいたぶられた記憶があったのだろうが、彼らとはここが違うんだという、区別する明白な物は、何物も持っていなかった母が、唯一、自分と彼らを区別できたのは『清潔』でいるということだけだったのかもしれない。

「お風呂に行ってきなさい」
姉と二人、風呂桶と石鹸を持たされて家を出た私は、何で汗もかかなければ、ほこりも被らないこんな日に、風呂に行かなければならないのか、この日ばかりは納得できなかった。
姉は銭湯から上がると、さっさと家に帰ったが、銭湯に行かずに遊んでいた私は、暗くなるまで帰らなかった。
薄暗くなってから帰った私に母は
「風呂にも入らないような汚い子には、食べさすご飯はないよ。」と、私に凄んでみせた。
「そうですか。」
私はあっさり納得すると、死のうと思って家を出た。
それから四時間後、近所のニワトリを飼っている小原のおばさんに見つけられて、私は家に連れ戻されてしまった。
それ以来、母は私に何も言わなくなった。
その日、線路から見た三日月が、平塚の方にある工場地帯の長い煙突に吸い取られるように消えていった光景が、心の隅に鮮やかに残っている。
小原のおばちゃんと、私を連れ戻しに来たばあちゃんが
「明日は梅雨明けかしらね」
と、言っていた言葉を私は昨日のようにはっきりと覚えている。

〈2〉

「よう!山崎。」
野太い声が背後から聞こえた。
「光ちゃん?! 来てくれたんか?!」
背丈は百八十センチほど、体重は悠に九十キロは超えると思われる光ちゃんが、重そうなリュックサックと大きな白い紙袋を下げて、にっこり笑って立っていた。
高円寺で仲間と出版の仕事をしている光ちゃんは、大学で経済を勉強していたが、どうしても司法試験をとりたくて、大学三年頃から司法試験の受験体制に入って勉強していた。
大学でたまたま机を隣り合わせ、深沢七郎がお互いの愛読書であるというだけで、信頼関係は成り立ってしまった。

「よく来てくれたなぁ。早速だけど昼飯の用意をしてくれないか。」
光ちゃんは山登りが好きである。
休日になると丹沢の山々を登り歩いていた。
宮ヶ瀬から塔の沢、蛭ヶ岳と、三日でも四日でも、長い時は十日程も帰ってこないことはざらだった。
一時期、光ちゃんの下宿先に転がり込んで、三ヶ月ほど寝食を共にしたことがあった。
彼も私も留守勝ちで、なかなか一緒に食事をする時間が無かったが、当時、通訳のバイトをしていた私は金回りも良く、晩飯は私がおごり、朝飯は彼が自炊してくれたのだった。

味は折り紙付き。
今日から美味しい飯が食えそうである。
私以上に喜んだのは父だった。
父は小さい頃から仕事は教え込まれたが、日々変化する生活の細々とした事は一切教え込まれていなかった。
仕事さえ出来れば金はついて回る。
そうすれば、女も飯もついて来る。
例え生活の貧富の差が多少あれども、それが人生というものだ、という信念のようなものを持っていた。
自分の稼いだ金の範囲内で家族が生活する。貧しくとも父を中心にした和やかな家庭を夢想していた父だったが、母は違った。

母は限られた予算の中で慎ましく生活するよりは、足りない分は自分で稼ぎ出す。
所謂、自立心の高い女性だった。
母は主婦と仕事を両立させた。
朝飯と弁当と夕飯は、日曜日以外、準備し忘れたというようなことは無かったように記憶している。
父もそれが当然だと思っていた。
が、ここの生活は、父の思いにはお構いなしに誰が食事の準備をするのか決まっていなかった。
父のおかずは決まって、ありったけの野菜を入れて煮詰めたような味噌汁だった。
私は味噌汁に、あとは缶詰。中でも鯖缶の味噌煮が最も安価であったため、鯖缶は常に台所に山となって保管されていた。

光ちゃんの参加で仕事に弾みがついた。
余裕も出来た。父と私の呼吸もぴったりと合い始めた。
次ぎに何をしたら良いのか、言われなくても判るようになってきたのだ。
尾根を全部張り終え、二部屋と台所だけは窓枠を入れ、あとの仕切はベニヤを打ちつけたり、引き戸を入れたりして、どうにか雨風だけは凌げるようにした。
風呂だけはまだまだかかりそうなので、前田さんに頼んで使わせてもらう事にした。

〈3〉

「ようし!今日は祝杯だ」
前田さんからの引越しが完了した七月下旬の或る日、ささやかな引越記念パーティを三人で用意した。
イカとハマチの刺身に肉じゃが、それに定番の鯖の味噌煮の缶詰を買出しに行って来た。
久々に豪勢な夕食である。
レッドの大瓶を二本買い込んだ。
ビールも酒もまだまだ贅沢品であった。
父の若い頃は冷酒を一、二合一気に飲んでそのまま山手線の駅を一駅走れば、たいがい酔っ払えたもんだと自慢していたが、今は手軽なレッドがあった。
その上、極上の自力で掘った井戸水が、水割り用の水として使えるのだ。
冷たい、汲んだばかりの井戸水をコップにとり、琥珀色のアルコールをとくとくと差し込むと、不思議な螺旋模様を描きながら水割りが出来あがる。
冷蔵庫の無い七月の盛りである。
刺身の料理は一分の猶予も許されない。
『乾杯!』
『乾杯!』
光ちゃんは静かな野太い声でコップを前に突き出す仕草をしては、見事にぐいぐい飲み干していく。
あまり酒の飲めない私らは、貴重な一杯の水割りを飲むと、料理の方に舌鼓を打っていた。
「この家が完成したら、今度は一級酒かビールで乾杯しようぜ」
父が酔った勢いで威勢のいいことを言い出した。
「いいえ、僕はこれで充分です。この水割りは最高です。」
私と光ちゃんは顔を見合わせてニヤリと笑った。

自分たちの建てた家で、自分たちの掘り当てた水を飲む。
例えその生活が極貧の状態だとしても、自分で掴んだ自分の生活がそこにはあった。
それで充分だとは思わないが、確かな自分の生活が出来あがりつつある、という実感は沸沸と湧いてくる。
あまり飲めもしない私は、そこにそのまま、いかにも一人で酒を飲んだかのように酔いつぶれてしまった。

夜中の何時頃だったろう。
ぶんぶんという蚊の鳴く声に「ふっ」と目が覚めると、光ちゃんが平然と本を開いて勉強していた。
光ちゃんの持ってきたリュックサックと白い紙袋の中は、僅かな下着と着替えと、あとは法律関係の本ばかりだった。
私は家を造り始めてから、英語の豆単は手許に置かなくなっていた。
本もテレビも映画も観なくなっていた。
少なからぬ衝撃を覚えたが、私はそのまま目を閉じた。
翌日、私は一日中青い顔をしていた。
午前中は二度、三度と胃液まで吐き出して、せっかくの栄養源を自分の意思とは関係なく体が拒絶してしまうのである。
「全くだらしがねえだから」
父は全く情けないという顔をして、舌打ちしていた。
光ちゃんは唯々笑っていた。
梅雨明けは三日ほど前に気象台から発表されていた。

vol.7:五右衛門風呂

〈1〉

夏は一瞬の内に過ぎていった。
赤蜻蛉が、まるで地底から涌き出てきたように、大空に群れ飛んでいる。
何も生えそうに無かった石ころだらけの畑のそこかしこに、雑草が少しずつ伸び始めていた。
畑の中に一歩足を踏み入れると、赤茶色した大小の石ころの上から、赤蜻蛉が次々に飛び立っていく。
少しでも足を止めようものなら、肩や頭の上にゆったりと、赤蜻蛉が体を休めにやって来る。
「んてこった!」
何か無性に腹が立ってくる。
別に、肩に止まりに来る赤蜻蛉に手も足も出ない自分自身に腹が立っているのではない。
こんな世界を二十数年も知らずに来た自分の馬鹿さ加減に腹が立つのである。
「いつまで小便をしているんだ。」
背後から現実主義一本やりの父の声が私を呼んでいる。
体をぶるぶると振るわせて、最後の一滴を振り払うと、来年はここいら辺にじゃがいもでも植えようと、位置関係をしっかりと、頭の中に叩き込んでおく。
一滴の小便も、一発の屁も無駄には出来ない心境である。
「ぼさぼさしてねぇで、風呂桶を早く捜してこねぇと、仕事が終わらねぇじゃねぇか」
別にさぼっている訳ではなかった。
私にとってはこうやって畑の真ん中で赤蜻蛉に囲まれながら、イメージに耽ることも、重要な仕事のうちなのである。

夏休みが終わると、
「又、来年も来るから。」と、言い残して、光ちゃんは帰っていった。
それからというもの、土方と家の方の仕事では、なかなか予定通りには進まず、父もかなりいらいらしていた。
ここ二、三日、どんな風呂にするのか、父と良く話したが、ドラム缶の風呂はよした方がいいと言う結論に達した。
ドラム缶の風呂は丸太小屋と同様、小さい頃からの憧れであった。
畑仕事を終えて野外で入るドラム缶の風呂。
下にはすのこが敷いてあり、ちょっと囲いなどして、できたら犬や猫達も一緒に風呂に入れたりして……等々と思っていたが、現実にはちょっと無理があった。
まず、風の吹く日もあれば雨の降る日もあるということ。
そして、ここは北陸。十一月になれば雨と霙と雪の毎日である。
その上、ドラム缶の風呂は長持ちしないのである。
「露天風呂は無理だ。」
父は断定的に言い切った。
「五右衛門風呂がいい。」
父には珍しくドラム缶風呂の代案をすぐに出して来た。
五右衛門風呂はもしかしたら父の幼い時からの夢だったのかもしれない。
「じゃ、夏山に行って捜してくるわ。」

夏山鉄工所は様々ながらくたが、所狭しと堆く積まれていた。 鉄骨やパイプの切れ端がいたる所に転がっている。
バッテリーや解体した車のエンジンが野晒しになって、黒い錆汁があちこちのパイプの口から漏れ出ている。
特にドラム缶の山は壮観であった。
ドラム缶の山を物欲しそうに見ていると、
「ドラム缶が欲しければいくらでも分けてやるざ。」
夏山のおじさんは気軽に話しかけてきた。埃まみれになったフォークリフトに乗りながら、
「風呂釜ならドラム缶の山の向う側にあるかもしれないなぁ。」
と、見事に積まれたドラム缶の山を指差した。
ドラム缶の山の後ろに回ると、そこもまさに鉄片の墓場そのものだった。

運が良い時は運が良いもので、その墓場のちょうど中央に、私を見つけてくださいと言わんばかりに、風呂釜が三つも無造作に転がっていた。
一つはひびが入っていてまるで駄目だが、残りの二つは使えそうである。
二つのうち割合新しそうな方を選んで分けてもらうことにした。
「こんなもん、何に使うんやの?」
夏山のおじさんは興味深そうに聞いてきた。
「勿論、風呂釜ですが」
「風呂釜にするって言うたかて、こんなもんじゃ、すぐに漏れてしまうがの。」
「それでもいいんです。」
尚も訝しげに声をかけてくる夏山さんの言葉を遮るように、
「この釜、いくらですか?」
と、尋ねてみた。
「使えるものなら、一万円も置いていけや。」
夏山のおじさんは、さらりと言ってのけた。
「た、た、高い!」
と思ってみても後の祭。
相手にとっては、私が価値を見つけて売ってくれと言うからには、高い値段をつけるのが当たり前なのだ。
「もう少し安くして!」
と言えない自分が情けない。
金が無いなら無いで、その旨をしっかり説明し、何とかして安くしてもらえるよう頼むべきなのだ。
その為に鉄屑屋へ来たのじゃなかったのか。
夏山さんにとっては、風呂釜が千円であろうと一万円であろうと、あまり問題は無い筈である。
そこまでは解っていても「まけて」と言う一言が言えないのである。
「俺はこの二年間、見栄のよろいを脱いできたのではなかったのか……」

肩の辺りの力が「がっくり」と抜けていくのが傍目にも解ってしまうぐらい落ち込んでしまった。
家の方にかあちゃんがいるから、そこでお金を払っていってくれと言う。
軽トラックに釜を積んで家の方に行くと、夏山のかあちゃんが鼻眼鏡をかけて帳面をつけていた。
「すいません、この釜をもらっていきます。」
そう言うと、夏山のかあちゃんは顔を上げてボールペンを置くと、軽トラックの傍に品定めにやってきた。
「何にするんや?」
気さくで、とっつき易いおじさんに比べ、かあちゃんはぶっきら棒そのものである。
「風呂釜です。」
私は少々、「むっ」として答えた。
「すぐに壊れるよ、千円やな。」
と、ぼそりと言った。
「千円って……。おじさんは一万円だって言ってましたが……。」
おばさんは、馬鹿だねぇこの男は、と言うような顔をして、まじまじと私を上から下まで見下ろすと、
「一万円払いたければ払って行けばいいよ。」
と言って、又机の前に向かった。
人は見かけによらぬもの、というより、まだまだ風体に騙される自分が恥ずかしい。
一人前になる道は遥かに遠い道のりだ、としみじみ思った時だった。
「よーし、最高の五右衛門風呂を作ってやるぞ。」
千円札の向うのおばさんを拝みながら、体中に力が溢れて来るのを感じていた。
秋も真っ盛りの十月の初めのことであった。

vol.8:廃材拾い

〈1〉

「おい一之、来ているぞ。」
父が嬉しそうに用事先から帰ってきた。
「今日は二山だ。いい垂木と柱が有りそうだぞ。すぐに車を用意しろや。」
父は作業着に着替えるのももどかしそうにズボンのチャックを上げながら、私を促した。
「よっしゃ、行こうぜ。」
ナンバープレートも無い古々の一トン車に雪道用のチェーンをはめて、大きな音を轟かせながら、一キロ程離れた埋立地に向かった。
そこの埋立地では、土砂に混じって、時々廃材を捨てに来ては火をつけて燃やしていた。
火をつけるまでの数日のうちに廃材を取りにいくと、実に様々な物が手に入った。
垂木や柱は勿論の事、ベニヤや床板、建具やタンス、それに新品のタイルの流し台や、新品の便器が落ちていた時には思わず、「やった!」と、叫んでしまったほどである。
金額にして一車、二万円から五万円ほどの価値はあっただろうか。
多い時には三車分ほどの古材が手に入った。
初めて廃材を拾いに行ってから十年ほどは拾いに行っただろうか。

ところが二人の話がきっかけで、私は物を拾うという行為をピタリと止めてしまった。
一人は横山さんという、『三国焼』を焼いている人の話からだった。
横山さんも私と同様、何でも自分で作ってしまう人で、作業小屋から内装まで、殆ど拾ってきたもので間に合わせていた。
父とたまたま横山さんの作業場を見ては、
「横山さんの作業場よりは、うちの方がよっぽど上手く出来てるなあ。」
と、父子で密かに自慢していたものである。

横山さんの作り方はいたって簡単明瞭。
溝やほぞなどの細工は一切せず、全部チェーンソーのぶつ切りである。
止めはカスガイとハゴイタに釘。
そのぶつ切りの作業小屋でロクロを廻し、釉薬を塗り、三国焼を焼き上げるのである。
時々、窯出しの手伝いなどをさせてもらうが、
「これは駄目、これも駄目……。」
と言っては、無雑作に作品を叩き割っていく横山さんの姿と、廃材を拾う時の横山さんの姿とは、どうしても同一人物とは私には思えないのである。
窯出しが終わり、横山さんの目に叶った作品を棚の上に並べた時の少年のような満足そうな姿を見たりすると、人間の持つ不思議さに心打たれさえするのだった。

〈2〉

その横山さんが、或る日お茶を飲みながら、しみじみと溜息混じりに話し出したのだった。
「この頃息子が俺と一緒に外に出たがらないんだよなあ。息子が『お父さんと一緒にいると、何でも拾ってくるから、僕恥ずかしいよ』って言い出して、俺も考え込んじゃってさあ。」
横山さんが父親として悩んでいる。
これは、私には意外だった。
横山さんは見栄も外聞も無く、ストレートに行動を起こす少年のような心を持った人だと思っていたからだった。
だから横山さんには三人の子供がいるが、実は横山さんを加えると、四人の子供達がいる家という印象を持っていたのだ。
その横山さんが子供の成長とともに、自分が必要とあらば見栄にも甘んじる『父親』になろうか、と悩んでいるのである。
人は時が来れば大人になるのではなく、愛しい者を持って初めて自分を変える事の出来る大人に育っていくのだと、横山さんの話を聞きながら、私はひどく感動していたのだった。

もう一人は藤田さんの一言だった。
藤田さんは前田さんと並んで、福井県の牛飼いの代表格のような人であった。
今から十四年程前にトラクターの事故で脊髄をやられ、寝たきりになってしまったが、藤田さんにも様々な事を教えてもらった。
草刈作業を鎌や草刈機でやっていると、
「山崎、そんな事は奴隷のやる仕事や。奴隷に甘んじてはあかん。」
藤田さんはその言葉通り、あらゆる農作業機のパイオニア的存在であった。
バインダーもコンバインも乗用トラクターも村で一番最初に導入してきたのも藤田さんであった。
機械が好きだと言うよりも、寧ろ、機械を上手に使いこなす事により、農民という新しい像を頭の中に描いていたのだと思う。
その藤田さんが或る日、
「山崎なぁ、お前が金の無いのはよくわかるが、いつまでも物を拾って来たり、中古の中古のような車にしがみついていると、そういう人間になってしまうぞ。」
と、言われたことがある。

この言葉は時が経つにつれて味わいのある言葉になってきた。
十五年前に家を新築した時、一番驚き、喜んでくれたのは藤田さんだった。
今でも乗用車は中古であるが、軽トラックと二トンダンプは新車で購入するようになった。
藤田さんの一言が脳裏にこびりついていたからである。
「無理をしてでも新車を買えば、その新車を乗りこなせる人間になれる。そうやって村で一人前として認められ、成長していくものだ。」
横山さんと藤田さんの話から、廃材拾いは止めてしまったが、止めたのはこれから十年後のことである。
第一の家造りから、その後、三軒の牛小屋と、もう一軒の第二の家造りが終わるまで、廃材拾いは止めるわけにはいかなかったのである。

「大漁!大漁!」
いまにも壊れそうな一トン車に廃材を満載にして、父と私は口笛でも吹きたい気分であった。
秋も深まり、もうそろそろ冬の足音がすぐそこまで近づいてきている十月末の出来事だった。

vol.9:雷鳴

〈1〉

十月も末になると、家の外装は殆ど仕上がってきた。
あとはタイル貼りと壁塗り、畳のはめ込み等、内装作業を残すだけとなった。
十一月十日の日のことだった。
父と押入れの中段を作る作業をしていた時だった。
突然、「バリバリバリバリ……」と言う激しくトタン屋根を叩きつける音にびっくりして戸を開けてみると、みるみるうちに、赤茶けた石ころだらけの土地が、霰で一面真白になってしまった。
冬がそこまでやって来ている。
父と思わず顔を見合わせながら、底知れぬ緊張感に襲われた。
父も私も雪の持つ本当の怖さを知らない。
雪が積もればきれいだなあ、ぐらいにしか実感として沸いてこないのである。
そんな私達の度肝を抜くのに充分な迫力があった。
雪が降り始めるまでには、なんとしてでも家を完成させなければ、と緊張感は一気に高まった。

その日を境に天候は時雨模様の毎日になった。
所謂『能登日和』と言われている天気模様で、北風が強まり、一日のうちに、晴れたり曇ったり、霙混じりの雨が降ったりと、目まぐるしく天候が変化するのである。
加えて、腹の底まで響くような音を轟かせながら『ピカッピカッ』と光る雷と稲妻は、辺境にいる心細さをいやが上にもかきたてるのである。
が、一方、天地を引き裂くような稲光りと大地を揺り動かすような雷鳴を聞きながら、内心、断水になる心配も停電になる心配もねえや、と思わずにはいられなかった。
次の日からは玄関先に一斗缶を置き、その中でガンガン火を燃やしながら暖を採ることにした。
稲光りのおどしに尾っぽを巻いて逃げ出すわけにはいかなかった。

〈2〉

「一之、一度タイル屋へ聞きに行ってこいや。断られてもともとだからよ。」
父はいつのまにか私のペースにはまってきたようだった。
父はタイル屋へ行けば、半端なタイルが余っているはずだ、と言うのである。
タイルは普通、一箱単位で注文するため、一箱で足りなければ、又一箱追加注文しなければならない。
その為、必ず三十センチ四方のタイルが、二、三枚から多い時には七、八枚ぐらい余る筈だと言うので、半信半疑ながら、町のタイル屋さんを訪ねてみると、本当に、タイル屋さんの小屋の片隅に、山のように余ったタイルが積み上げられていた。
捨てに行くにもお金がかかるし、勿体ないから何処かで使おうと思うのだが、なかなか使う機会が無いのだと言う。
五千円払えば好きなだけ持っていっていいと言う。
おやじさんの気の変わらないうちに、と、その日は単車でタイル屋さんと山まで、五往復ほどして、大量にタイルを仕入れて来た。

タイル貼りは根気のいる仕事だった。
モザイクの小さなタイルは三十センチ四方になっていて貼りやすかったが、十センチ四方の大きなタイルは、一枚一枚いかなければならなかった。
どうにかこうにかタイルを貼り終え、仕上げに白セメントで目地を詰め、最後の仕上げにはぼろ布でタイルをこすり上げると、美しいモザイク模様がくっきりと浮かび上がってきた。
トイレ、風呂場、台所と、ピカピカのタイル貼りの完成である。
ただ、よくよく見ると、少しずつ、或いは大胆に色模様が違っているが、まあそれは愛嬌というもの。
父の発想の大勝利であった。

壁塗りは、父が二十三才で兵隊に徴用されるまで左官屋をしていたと言うだけあって、さすが『プロ』というほどの腕前だった。
下塗り、中塗り、そして上塗りと、期間を十日程空けて仕上げていくと、柱の隅々が次々に隙間なく塗られていき、急に家らしくなっていった。
「大工には家は建てられねぇが、左官には家が建てられる。」が、父の口癖だった。
父の風呂場のレンガ積みや、壁塗りを見ていると、成る程と、私を納得させるには充分な仕事振りだった。

最後の最後は畳をはめ込む作業である。
三国町の隣町は芦原町と言い、北陸有数の温泉街である。
芦原町の旅館のどこかで、毎日、畳替えは行なわれていた。
新品同様の畳を二十枚と半畳を二枚、前田さんの伝手で手に入れる事ができた。
ところが、畳を敷き始めて、はたと困ってしまった。
寸法が合わないのである。
どんな並べ方をしても微妙に合わないのである。
「うむ……。」
父も私もしばし絶句。
これを畳屋さんに持っていけば加工賃を取られてしまうし、新しい畳ならいざ知らず、こんな古畳を加工してくれるかどうかも判ったもんじゃない。

実はこれは関東間と福井間の寸法の採り方の相違に原因があった。
中心から中心までの寸法を採る関東間に対し、正味の寸法を採る福井間とでは、福井間のほうが僅かではあるが寸法が長めになるのである。
その僅かな寸法採りの違いが畳がはまらない原因であった。
畳を縦にしたり、横にしたりして、しばらく試みたが、どうしても畳ははまってくれない。
最後の手段である。
「親父さん、これしかないよ。」
「又そんな滅茶苦茶を言う。もうお前なんかと二度と仕事はしたくねぇ。」
嫌がる父を説得して、最後の断は私が下した。
「柱を畳の当る部分だけ削ろう。」
かくして柱の畳の当る部分が全て削られた。

vol.10:終章

父は完璧な家造りを夢見て全力を出して来た。
私は雨風を凌げる生活空間を造るために必死に働いた。
お互い必死だった、と言うことでは理解し合えた。
あとの考え方の違いは、この際、どうでもいい事のように思えた。

一九七二年十二月三日のことであった。

総工費二十四万円余、日雇い賃金一日三千円の時代である。
その日の日記のページには短い一言が書かれていた。

『おけら山荘完成。我不覚にも落涙す。』

父に対する感謝の言葉は書かれていなかった。
まだまだ若い二十四才の厳冬を迎える前の三国の山の中の出来事だった。 完